生きる意味を見失ったどん底の日々。
友人や患者会の支えで未来を描けるようになった

小磯朋子さん

小磯朋子さん(32歳)静岡県
発症 24歳/子宮頸がん

取材日(2017年12月13日)※年齢・地域は取材当時のものです。

がんのショックよりも仕事を休んで迷惑をかけることが心配だった

小磯朋子さんのインタビュー時の写真

生理不順や不正出血などがつらくて婦人科を受診し、子宮頸がんの検査を受けたのは23歳のときでした。

そのときは「中等度異形成」というがんになる前段階だったので経過観察することになったのですが、半年後の再検査で子宮頸がんと診断されました。がんになったことはショックだったのですが、生きるか死ぬかの心配より、まず「仕事を休んだら職場に迷惑をかけてしまう」ということが頭に浮かびました。

若い人は進行が早いからと、すぐに子宮をすべて摘出する手術を受けることになり、悩む時間もありませんでした。手術後は、子どもが産めなくなったことが悲しかったですが、「命」をいただいたのだから、と思うことで乗り越えられました。また、手術、入院、治療などにお金がすごく必要でしたので、悲しさよりも「早く元気になって、早く仕事に戻りたい」とばかり考えていました。手術後に3ヵ月間、放射線と抗がん剤の治療を受け、その後は職場にも復帰できました。

再発から回復するも、元気になっていくことを喜べなくなった

「手術をしたからもう大丈夫」と、フルタイムの仕事をしながら友人と海外旅行をしたり、がんになる前と変わらない生活を送っていましたが、3年4ヵ月後に再発。「余命は1~2年」と告知されました。

最初に発症した24歳のときは、まわりの友人たちもまだ独身でしたし、先のことはあまり考えず命を最優先に手術を受けましたが、再発した27歳のときは、友人たちが結婚や出産を経験する年代に変わりつつありました。そんな中、自分だけ取り残されているような感覚で、友人と自分を比べて苦しくなることも増えていき、「あと1~2年楽しく生きて、そのまま人生が終わるほうが楽かも」と考えるほどになっていました。

でも、そんな気持ちとは裏腹に、抗がん剤や放射線の治療によってがんはどんどん小さくなり、1年半後には経過観察になるほど、「体」は元気になっていきました。普通は元気になるのはうれしいことのはずなのに、私は違いました。「このまま生きて苦しい思いをするより、命がなくなったほうがいい」と思っていたのに、元気になってしまった。これからどうやって生きていけばいいのかわからず、私は「元気になること」、そして「これからも生きていかなければいけないこと」をつらいと思い出しました。

つらい思いを吐き出して初めて気持ちが楽に

家族や友人たちは元気になったことを喜んでくれて、私もそう振る舞っていましたが、心の奥底では「これからどうしよう。どう生きていけばいいのだろう」と毎日すごく考えていました。でも、世の中には、生きたくても生きられない人がたくさんいるので、「生きたくない」とか「元気になってつらい」と思っていることを誰にも話せませんでした。

現状を変えたいという思いはあるものの何もする気になれず、ただベッドの上で1日過ごすだけ、気持ちはどんどん落ち込んでいきました。何もしない自分に対して、家族からは圧力をかけられているように感じ、母の何気ないひと言をきっかけに、家族とも一切関わりを持たなくなってしまいました。部屋に引きこもり、出された食事もとらず、お風呂にも入らない、どん底の状態が3ヵ月ほど続きました。

小磯朋子さんのインタビュー時の写真

そんなある日、親友から、結婚の報告と「結婚式で友人たちと余興をしてほしい」という依頼が舞い込んできました。友人たちも私の異変を感じていたようで、なんとか私を外に引っぱりだそうとしてくれたのです。それをきっかけに、自分の中で「変わりたい」という思いがどんどん強くなり、思い切って、治療中にずっと見守ってくれていた看護師さんに電話をしました。

そのとき初めて本音を吐き出すと、「苦しかったね」との言葉が返ってきて、とても気持ちが楽になったのを覚えています。その後は、家族や友人にも本音を話せるようになりました。友人が「それでも生きていてくれるだけで私たちはうれしい」と言ってくれたときは、本当にうれしかったです。家族も同じ気持ちでいてくれることがわかって、やっと自分の生きる意味を見つけられた気がしました。

また、がん相談支援センターに紹介してもらった女性特有のがんの患者会NPO法人オレンジティ」にも、勇気を出して参加してみました。みんなとても親切で、でも優しすぎず、ふつうに接してくれるので、とても居心地がよく、毎月の活動が楽しみになりました。活動の一環で、自分の経験を話す機会をいただくこともあります。おかげで、少しずつ自分に自信が持てるようになり、やりたいこと、できることが増えていったように思います。がんセンターで紹介してもらった就労訓練にも参加し、今は正社員としてフルタイムで働いています。

病気を受け入れ未来を一緒に考えてくれるパートナーとの出会いも

最初のがんがわかったとき、交際している人がいましたが、子どもを産めなくなることなども考え、病気のことを伝えてお別れしました。その後も何度か出会いはありましたが、「病気のことを話さなきゃ」と思うと不安になり、自分から断ってしまうことの繰り返し。それからは、恋愛のことを考えないようにしてきましたが、患者会の知人を介して今の彼と出会いました。

私に病気があることは、知人から聞いてなんとなく知っていたようですが、何度か会ったあとに、機会を見つけてこれまでのことをすべて話したときは彼も驚いたようで、無言になってしまいました。私はとても不安になりましたが、その後、「大切なことを話してくれてありがとう」と言ってくれて、結婚を前提としたお付き合いがスタートしました。後で聞いたのですが、彼は「病気のことを話してくれたことで、告白しようと心に決めたんだよ」と言っていました。

もう恋愛はしないと思っていたのに、彼と出会うことができて、一緒に過ごす未来も描けるようになりました。それもすべては、あのとき生きられたおかげです。今では、生きていたいと心から思います。

「私で良かったのかな?彼に迷惑をかけていないかな?」そんな不安とも向き合っていかなければいけないかもしれませんが、今は、病気のことを受け入れてくれた彼の気持ちを信じることが、その気持ちに報いることになるんじゃないかと思っています。

今後は自分が「支える側」になりたい

小磯朋子さんのインタビュー時の写真

がんが再発してから、意欲や自信をなくして過ごした時期もありましたが、今では仕事に就き、オレンジティの活動にも参加しています。実家を離れて、自分の家庭を持ちたいという夢も抱くようになりました。子どもについては、患者会で多くの先輩方から話を聞いたり、彼と話し合ったりすることで、「夫婦二人で生きる」「養子を迎える」など多くの選択肢があると知ることができたので、これからいろいろな可能性を考えていきたいと思っています。

今、私はオレンジティの活動の中で、AYA世代でがんを発症した女性を対象としたおしゃべりルーム「オレンジブロッサムCafé」のリーダーを務めていて、この活動を今後も続けていきたいと考えています。

私はこれまで、たくさんの人に支えてもらってきました。ずっと人からしてもらうばかりでしたが、これからは自分が誰かを支える立場になりたい。それが今の目標です。

こちらも読まれています

  • 監修:がん研有明病院 腫瘍精神科 部長 清水 研 先生

2024年2月更新