人生の休み時間だと考えて新しいことに挑戦。
新たな夢を見つけて職人修行に励む

保坂翔大さん

保坂 翔大さん(33歳)秋田県
発症・告知 27歳/急性骨髄性白血病

取材日(2018年9月8日)※年齢・地域は取材当時のものです。

告知直後は実感がなく、不安がこみ上げたのは翌日だった

保坂翔大さんのインタビュー時の写真

27歳のとき、1ヵ月くらい続く微熱に加えて体中に斑点のような内出血が出てきたので、会社近くのクリニックを受診して血液検査を受けたところ、「紹介状を書くから、すぐに専門医に診てもらって」と言われました。そのまま総合病院に行くと、検査結果の告知を受けるかどうかを尋ねる書類を渡されました。それは以前、父が胃がんで同じ病院に入院した際に家族の立場で書いた書類と同じものだったので、「この書類を渡されるということは、ヤバい病気だ」と認識しました。
骨髄穿刺をして検査した結果、病名は急性骨髄性白血病。そのまま即、入院でした。告知された当日は、展開が急すぎて実感はまったくありませんでした。
翌日、病室で昼ご飯を食べ終えたころ、突然、自分が命に関わる病気なんだという実感がわき上がってきました。これまでの人生で、たいていのことは自分の力で乗り越えてきましたが、白血病は自分の努力だけでは乗り越えられそうにない。初めて自分で打ち破れない越えられない壁にぶつかって、自分の弱さ、無力さを感じて涙が止まらなくなりました。
ちょうどそのとき、主治医の先生が回診に来られました。先生は、じっくりと話を聞いてくれて、「この段階で自分の弱さに向き合える人は少ない。それだけでも君は強い。大丈夫だ」と言ってくれました。この言葉のおかげで「自分は頑張れる」と思えたし、この先生を信じてついていこうと思いました。

入院は人生の休み時間。そこで出会ったレザークラフト職人という夢

病室のベッドに座っている保坂翔大さんの写真

仕事は営業職で、僕の担当顧客を同僚と先輩で分担して治療に専念できるようにサポートしてくれるなど理解ある職場でした。高校時代のアルバイトからずっと一生懸命に仕事に打ち込んできたので、最初のうちは仕事をしていない自分に違和感がありました。でも、長い人生に少しの休養期間をもらったんだと、気持ちを切り替えることにしました。色々な分野の本を読んだり、新しいことに挑戦して自分を見つめ直す時間にしようと考えたのです。そのなかで、軽い気持ちで挑戦してみたレザークラフトに惹かれ、さらに退院後には素晴らしいレザークラフト職人の先生との出会いがあり、いつかこれを仕事にしたいという夢が生まれました。
移植をするためのドナーは見つからなかったものの、抗がん剤治療によって幸い寛解状態になり、退院した半年後には会社に復帰することができました。会社の配慮で、体力的な負担の少ない部署に異動させてくれて、「体力が戻ったらまた頑張ってくれたらいいから」と励ましてもらいましたが、発症前と比べて会社に貢献できないことが辛くて、結局、退職を決断しました。何度も慰留してもらって本当にありがたかったのですが、入院中に見つけたレザークラフト職人になるという夢を実現したいという思いもあったのです。

同じ時期に胃がんで闘病中だった父から学んだこと

僕が白血病と診断されたとき、父も胃がんで闘病中でした。当初、父は余命半年と言われていたのですが、前向きに明るく生きて、宣告された余命の3倍、1年半くらい生きることができました。父はずっと自宅に帰りたいと願っていて、在宅に切り替える準備を進めている間に危ない時期があったのですがそれも乗り越え、退院した日、自宅に帰って数時間後、自宅のベッドで亡くなりました。
驚きましたし、悲しさもありましたが、帰りたいという願いを実現させた父の意思の強さに感動を覚えました。患者本人の生きたいという意思が重要だということを父から教えられたと思います。
会社を辞めることも、レザークラフト職人をめざすことも、父が反対したら諦めるつもりでしたが、「おまえはいつも自分で決断して進んできた。その決断が間違っていたことはない。大丈夫だ。やりたいことをやったらいい」と背中を押してくれました。
自分と同じがんという病気と向き合い、宣告された余命よりも長く生きた父の姿を間近にみて、その父に逆に励まされて、自分のこれからの人生に真剣に向き合う気持ちが強くなったのは間違いありません。

夢の実現にむけて頑張る自分を支えてくれる家族への感謝

保坂翔大さんと奥様の写真

最初の入院から退院した後、発症前から交際していた女性と結婚しました。病気になったことで彼女に迷惑をかけるので結婚はできないと僕は考えたのですが、彼女は二人三脚で一緒に生きていきたいと言ってくれました。会社を辞めてレザークラフト職人をめざすことも、むしろ彼女が勧めてくれたことでした。彼女のために作った財布を気に入ってくれて、「こんなものが作れるならみんな喜んでくれるはず。やろうよ。むしろやらないでどうするの?」という感じで、僕よりも前向きなくらいでした。

保坂翔大さんがご自身で制作されたレザークラフトの写真

その後、再発して再び入院することになったのですが、移植をしていないので再発する可能性が高い、と先生から聞いていたのでショックはあまりありませんでした。入院中にできた時間はレザークラフト職人になるための勉強に費やしました。専門誌を買い漁り、レザークラフトの先生にも本を借りて病室でノートに書き写し、デザインの勉強もして、先生や看護師さん、病室に出入りする人たちみんなに「何か試験でも受けるの?」と聞かれるくらいでした。
結局、移植ドナーは見つからず、姉の骨髄提供によるハプロ移植(半合致移植)を受けて、今、3年が経過したところです。有り難いことに、妻も母も、「移植から5年は生活のために働くことは考えずに治すことに専念しなさい」と、経済的に支えてくれています。なので今は、与えられた時間を利用して、体調をみながら作品を作ったり、ネット販売やお店での委託販売をしたり、レザークラフト職人としての修行に励みながら生きる道筋を少しずつ固めているところです。

秋田で患者会を立ち上げたい

「リレー・フォー・ライフinいわて」に参加する保坂翔大さんの写真

僕には、もうひとつ目標があります。それは秋田で患者会を立ち上げることです。
僕は告知されたあと、ネットで病気のことをずいぶん調べました。闘病の日々を綴った前向きなブログもありますが、ネット情報はネガティブなものが多い気がします。僕は意識的に前向きな情報ばかり見るようにしていましたが、ネガティブな情報ばかりを集めてしまう人もいると思います。ネットの情報に振り回されないようにするためには、患者同士が顔を合わせて体験談を語れる場が必要だと考えるようになりました。
世代別の情報発信も必要だと思います。例えば僕と同世代の患者にとって、妊よう性に関する情報はとても重要です。ところが、僕がそれを知ったのは1回目の抗がん剤治療の後でした。その後、無事に精子保存をすることはできたのですが、なんと数年後に契約更新手続きを忘れてしまったんです。そのことを知ったのは更新時期からしばらく経ってから受診した時だったので、どうすることもできませんでした。
僕たちは夫婦で話し合って、過ぎたことを悔やむのではなく二人の人生を楽しもうと決めました。しかし、精子保存の方法や更新について早い段階で知識を得ていれば、きちんと対応できたかもしれません。だから、自分の失敗や経験を同じ世代に伝えたいです。
昨年12月には、秋田の血液がん患者が6名集まる「お茶会」を開きました。30歳代前半が僕を含めて3名、同じ世代、同じがん種の患者との繋がりができるのは心強いものがあります。秋田は患者も病院も少ないですが、だからこそ患者同士の繋がりを病院と病院の繋がりに育てられるし、秋田だからできる連携があるのではないかと感じました。そんな地域密着の取り組みと並行して、全国的な活動とも繋がりをつくりたい。そして、がん患者や家族、支援者らが夜通し交代で歩き、勇気と希望を分かち合うチャリティーイベント「リレー・フォー・ライフ」の秋田開催を実現させたいです。

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  • 監修:国立がん研究センター中央病院 清水 研 先生