進級という大きなハードルを越えて、治療を頑張る気持ちになれた

米井慶太郎さん

米井慶太郎さん(17歳) 埼玉県在住
発症・告知16歳/小児慢性骨髄性白血病

取材日(2018年9月8日)※年齢・地域は取材当時のものです。

1ヵ月以上に及んだ検査入院。診断がついたときにはホッとした

米井慶太郎さんのインタビュー時の写真

病気がわかったのは高校1年生の夏でした。リンパ節のあたりに大きな腫れがあるのを見つけて病院に行ったら、血液内科の先生から「初めて見る大きさの腫れなので手術をして組織を採ってみないと診断ができない」と言われました。そして、県立の小児医療センターに検査入院することになったのです。
入院してから1ヵ月以上かかって慢性骨髄性白血病と診断されました。腫れていたリンパ節のしこり部分だけ急性に転化している珍しいタイプだったので、診断に時間がかかったのだそうです。世界でも症例が少ないと言われました。
病名を聞いて驚きましたが、診断が出るのを待っていた日々が本当に不安でしたから、診断がついてホッとした気持ちもありました。そして、他に例がないのなら先生を信じて頑張るしかないと思いました。慢性なので進行はそれほど早くないし、移植をすれば治ると聞いたのも安心につながりました。

スポーツ推薦で高校に入学したばかり。歯車が狂ってしまったと落ち込んだことも

米井慶太郎さんのインタビュー時の写真

1番の悩みは部活動をどうするかということでした。インターハイを目指していたのに、部活に復帰できるかどうかもわかりません。しかも、僕は剣道による推薦で高校に入学していて、部活に取り組むことが前提のクラスです。好きで病気になったわけではないですが、学校や顧問の先生に申し訳ない気持ちと、このまま学校に籍を置けるのかどうかという不安を感じていました。
しかし、病気になったことを顧問の先生に伝えると、「お医者さんが治療すれば治ると言ったなら、絶対に治るから気にするな」と言ってくれたんです。もしそこで先生に動揺されていたら僕も動揺したと思うんですが、先生がどんと構えてくれたので、見捨てられていないんだと感じて、前向きに治療に向き合うことができました。顧問の先生には本当に感謝しています。
剣道部の仲間や仲の良い友だちには自分から電話して、「少し時間はかかるけれど、治療法があって治る病気だから」と伝えました。クラスメイトには担任の先生から伝えてもらったのですが、あまり心配をかけたくない気持ちと待っていてほしかった気持ちがあったから、あえて「治る病気」だということを必ず伝えて欲しいとお願いしました。みんな、「待っているから頑張れ」と応援してくれました。
入院中は部活動に復帰したときのことを考えて、戻った瞬間にみんなを圧倒するような強さだったらかっこいいなという気持ちで、病室に竹刀を持ち込んで素振りをしたり、動画を見てイメージトレーニングをしていました。
周りに当たりたい気持ちもあったけど、周りに当たったって病気が治るわけじゃないからと、そこはぐっと抑えていました。怒りが抑えられない時は、枕を殴ったり、枕に顔をうずめて叫んでみたり、テレビを見て気分転換するようにしていました。

進級できるかどうかという大きな不安を抱えた入院生活

進級するためにはまず定期テストで合格点をとる必要がありました。病室でテストを受けることもできるのですが、その場合の点数はあくまで「見込み点」ということになってしまうため、学校に行って先生の目の前でテストを受けなければいけませんでした。テストは一時退院して受けに行きましたが、日々の授業を受けずに内容を理解するのはとても大変で合格点をとるのは苦労しました。しかも、テストで合格点をとったとしても、出席日数が足りないと進級できません。
入院していた小児医療センターには特別支援学校が併設されていて、小学生、中学生向けには院内学級がありましたが、高校の授業はありません。それでも、特別支援学校のみなさんが僕の高校と連携して、課題を持って来てくれたり、色々とサポートしてくれました。地元大学の教育学部生がボランティアで病院に来て、勉強を教えてくれたのも助かりました。でも、これらもすべて出席日数にはカウントされません。
最終的には、クラス担任と剣道部顧問の先生がずいぶん学校に働きかけてくれて、私立学校なので校長先生の判断で特例として進級が認められました。病気になったせいで学校に行きたくても行けない。それでさらに留年というペナルティを受けるのは辛すぎると思っていたので、進級できるとわかってやっと「これで治療に専念できる」と思いました。
最近、埼玉県の県立高校では病気治療で通学できない生徒のための進級制度ができたそうです。私立高校でも同じような制度が広がって、僕のように進級の心配をする人がいなくなるといいなと思います。

家族の支え、ドナーになることを快諾してくれた妹への感謝

米井慶太郎さんのインタビュー時の写真

告知されてすぐの頃は、母はとても落ち込んでよく泣いていました。自分が親だったらと想像すると泣きたい気持ちはよくわかるのですが、子どもの前では気丈に振る舞って欲しいなと思いました。でも、「泣きたいのはこっちなんだから。なんでお母さんが泣くの!」と、僕が母を励ますような形になって、それで逆に自分の気持ちが鼓舞されていたような気はします。
父は、医療関係の仕事をしていて知識もあったので、「現代医療はとても進んでいるから大丈夫だ」と最初から落ち着いていました。先生だけじゃなくて、父にも大丈夫だと言われたのは、心強かったです。
急性部分の病巣を小さくするために化学療法を受けた後、高校2年生の夏に骨髄移植をしました。ドナーはHLA型*が合致した妹です。4つ年下なので、中学生になったばかりでした。僕が逆の立場だったらどんなに不安だろうと考えると、とても彼女に「骨髄提供に同意してくれ」とは言えませんでした。彼女には彼女の人生があるのですから、提供しないという決断も受け止めるつもりでした。しかし、妹は、そんな僕の心のなかを察してくれたのか、僕にはまったく不安な様子や迷う様子をみせずに、ドナーになることを快諾してくれました。本当に妹には感謝しかありません。

*白血球の血液型のこと

第一線で活躍することから、支える側に回ろうと気持ちを切り替える

剣道部には学校に戻ってすぐに復帰しました。復帰したと言っても、見学から始めて、竹刀の素振りを休みながら徐々に回数を増やし、少しずつ体を慣らしていきました。
移植をする前はプライドもあって、戻ったらまたみんなを倒すぐらいに思っていましたが、移植後に部活に戻った頃には、自分のために強くなるよりも、自分が強くなったらみんなが焦ってもっと強くなるんじゃないか、自分が頑張っている姿を見せてみんなに頑張ってもらおう、みんなに結果を残してもらおうという気持ちに変わっていました。
最後までレギュラーに入ることはできませんでしたが、自分なりにチームを応援してチームのために働き、引退するまで部活を続けることができました。

夢は化学療法専門看護師になって、お世話になった病院に帰ってくること

病気になる前は、大学は法学部に進みたいと考えていました。でも、自分が病気をして目標が大きく変わりました。闘病を支えてくれた看護師さんたちの仕事が本当に素晴らしいなと感じて、自分も看護を仕事にしたいと考えるようになったのです。だから今、大学の看護学科を目指して受験勉強中です。
移植を受けた後、患者会にも参加しました。きっかけは母が参加していたからなんですが、同じ境遇の人と顔を合わせてコミュニケーションをとることは大事だな、面白いなと気づきました。大人の方々と話す機会も勉強になりましたし、同じくらいの年齢の人がいると「頑張っているな」と思いました。自分よりも年下の患者さんのご両親から相談を受けたこともありました。自分の話を一生懸命聞いてくださって、自分の経験を還元できるのが嬉しくてたまらなかった。それも看護師を目指すきっかけのひとつになりました。
化学療法を受けた経験がある看護師って、ほとんどいないと思うんです。看護師って、患者と家族を一番近くで支える大きな存在です。だから、僕の経験を生かして、がんの子どもたちと家族を支えたいと思っています。将来、化学療法認定看護師として、自分が入院していた病院で働くのが目標です。

  • 監修:国立がん研究センター中央病院 清水 研 先生