目の前の治療だけにとらわれず、将来を見据えた選択を大切に
柴 美穂さん(27歳)宮崎県
発症 20歳/慢性骨髄性白血病
取材日(2019年6月30日)※年齢・地域は取材当時のものです。
結婚式の2週間前に告知され、頭の中が真っ白に
病気がわかったのは2012年3月、私が20歳のときです。1歳半になる娘がいて、娘の父親にあたる男性との結婚式を2週間後に控えていました。
急な発熱で受診したクリニックで白血球数の異常を指摘され、血液内科のある病院に行きました。最初、血液内科の先生は「検査機器の故障だと思いますよ」と軽い感じだったのですが、再検査の結果もかなり数値が高く、「もしかしたらこのまま入院になるかもしれません」と言われました。でも、そのときの私にとって一番大事なのは結婚式です。「入院はちょっと…」と渋っていると、先生は「そんなことを言っている場合ではないですよ」とおっしゃって、「骨髄検査をしなければ断言できませんが、おそらく慢性骨髄性白血病(CML)という病気でしょう」と告げられました。
CMLのことは、子どものころに流行ったテレビドラマで見て知っていました。命にかかわる大変な病気であることはすぐに理解でき、「私、死ぬのかな」というショックと、1歳半の娘をどうしようという思いで、頭の中が真っ白になりました。
骨髄検査の結果が出るまでの1週間は、結婚式の最後の打ち合わせなどで忙しく、病気のことをじっくり考える暇はありませんでした。病気かどうかは半分半分という気持ちで、「もしかしたら違うかもしれない」と思う一方で、「もしがんだったら、いろいろなことを覚悟しなければいけないのかな」とも思っていました。ですから、改めて告知されたときは意外と落ち着いていました。先生から治療の説明があり、「今は飲み薬でコントロールできる病気ですから」と言われたのですが、がんの治療は脱毛するというイメージが強かったので、「治療は結婚式が終わってからでもいいですか」とお願いして了承してもらいました。
治療費を支払うため、仕事探し。面接官の発言に心が折れそうに…
3月末に結婚式を終え、4月から治療がスタートしました。入院はせずお薬を飲みながら月1回、外来通院する形だったので、娘に不安な思いをさせずに済んだのはよかったです。熱があってボーっとするものの寝込むほどではなく、隣に住んでいる両親に協力してもらいながら、普段通りの生活を送ることができました。
一方で、高い薬代を支払い続けることを考えて仕事を探し始めました。最初のうちは面接で病気のことを伝えていましたが、18社を受けてすべて不採用。中には面接官から「今の髪の毛は地毛なの?かつらなの?」と聞かれたり、「がんなんだから、仕事なんかせずに娘さんといてあげなさい」と言わたりすることもあって、嫌な思いをしたくないという気持ちと、病気のことを正直に言ったら落ちるかもしれないという不安から、19回目の採用面接では病気のことは黙っていました。
後日、この会社から採用の電話をいただいたのですが、うれしい反面、心苦しくなって、病気のことを打ち明けました。「今になってこういう話をして申し訳ありません」と伝えると、相手の方は電話越しに泣きながら、「気にせんでいいよ、病院にも行っていいし、体がきつかったら言ってね」と言ってくれました。本当にうれしかったです。
ただ、仕事は見つかったものの毎月の治療費の負担がかなり大きくて、経済的に不安定な状況が続きました。夫との関係も少しずつ変わっていき、結婚式を挙げた1年後に離婚しました。
同じ病気の人や新たなパートナーとの出会いが心の支えに
両親のサポートはありましたが、それでも治療と仕事・子育ての両立はしんどかったです。
その中で心の支えになったのは、ブログを通じて知り合った人たちとの交流です。ブログは自分の記録を残すために開設し、治療や子育てのことなど日々の様子をつづっていたのですが、そのうち私と同じ境遇の方がコメントを書き込んでくださるようになり、自分の世界が広がっていきました。その頃にCML患者・家族の会「いずみの会」にも参加し始め、同じ病気を持つ人たちと心置きなく話すことでずいぶん気持ちが救われました。
また、離婚から半年後に新たなパートナーとの出会いがありました。
交際を始めてすぐに病気のことを打ち明けると、彼は「俺は子どもが好きだし、3人で楽しいことやっていけばいいじゃん」と言ってくれたのは、うれしかったです。「この人と一緒なら楽しいかもしれん、病気のことをあまり考えずに生活できるかもしれん」と思い、1年半のお付き合いを経て再婚しました。バツイチのシングルマザーで、しかも病気という爆弾も抱えているわけですから「この先、結婚はもちろん恋愛もできないだろうな」と思っていたので、本当にラッキーだと思います。
将来の妊娠に備えて、受精卵の凍結保存を選択
子どもが好きなので以前からもう一人欲しいと思っていたのですが、CMLになってからは、自分に何かあったときに兄弟がいたほうが娘も心強いのではないかと思い、子どもを望む気持ちがより強くなり、再婚後、将来の妊娠・出産に備えて受精卵の凍結保存を考えるようになりました。
でも主治医に相談すると、「受精卵を凍結保存するには1~2ヵ月治療を中断する必要があり、リスクが高い」と反対されました。それでもあきらめられず、主人と二人で毎日のように病院に出向いて「どうしてもやりたい」と訴え続け、最後は半ば強引に了承してもらいました。
忙しい中、時間を取って話を聞いてくださった先生には申し訳ない気持ちもあります。でも、私たちには私たちの人生がある。目の前の治療も大切だけど、先のことを考えて子どもを持つ可能性を大事にしたいと思ったのです。
通院していた病院では生殖医療を行っていなかったので、受精卵凍結を実施している医療施設を探し、無事に受精卵を凍結保存することができました。ですが、受精卵を戻すタイミングは「白血病の原因となる遺伝子が検出されないところまで減少して少なくとも2年経ってから」と主治医に言われています。本来なら今すぐにでも子どもが持てるのに、薬を飲んでいるせいで妊娠すらできないんだと思うと、落ち込んでしまうこともあります。まだ時間はかかりそうですが、できるだけ早く娘に妹か弟をつくってあげられるよう、まずは白血球の数値を下げることを目標に頑張っています。
娘に病気のことを説明、自分にも変化が
娘には小学3年生になったタイミングで病気のことを話しました。これまでも「お母さんは病気だよ」などと軽く話してはいたのですが、何かあってから病気のことを聞かされて、いきなり大きな問題を背負うよりも、今のうちから段階を踏んで説明して、少しずつ受け入れていくほうがいいのではないかと思い、覚悟を決めて伝えました。
「お母さんは血の中に小さながんがたくさんある」と話すと、娘は泣き出してしまいました。有名人ががんで亡くなったというテレビのニュースを覚えていて、心配になったようです。「お母さんもそうなの?」と聞かれましたが、「薬を飲んでいれば大丈夫だし、具合が悪くなっても病院で治療を受ければいいんだよ」と言うと、すぐにどうにかなるわけではないと理解してくれました。
私自身、がんになって、それまでなら当たり前すぎて何とも思わなかったことにも喜びや感謝の気持ちを持てるようになりました。娘にもあいさつをしっかりすることや、何かしてもらったときは「ありがとう」と感謝の気持ちを伝えることの大切さを、折に触れて話しています。
以前の自分は精神的に幼くて教えられることも少なかったけれど、病気と向き合う中で視野が広がり、自分のことだけでなく周りの人のことも考えられる力が少しずつついてきて、娘に教えてあげられることも増えてきたような気がしています。
誰かの力になれる活動をしていきたい
私は20歳でがんを発病しましたが、妊よう性(子どもをつくる能力)について誰からも説明はありませんでした。同じCMLの方から話を聞く機会がなければ、受精卵の凍結保存は考えなかったと思います。「生きるか死ぬか」の瀬戸際のような時代とは違い、今はがん治療も進歩しています。医療従事者の方々には、治療が一区切りついたその後に患者の生活があることを踏まえた上で、治療を提案してもらえたらと思います。
また、私自身もできる範囲で誰かの力になれる活動をしていきたいと考えています。今はなかなか時間が取れないのですが、娘が中学生になれば余裕も出てくると思います。患者会にも参加したいですし、自分の時間も楽しみながら、何かしら自分にできることを見つけて取り組んでいきたいです。
- 監修:がん研有明病院 腫瘍精神科 部長 清水 研 先生
2024年2月更新