医療者ががんになった経験から、次の世代のために今できることに力を向けていきたい
樋口 麻衣子さん(35歳)富山県
発症 27歳/甲状腺がん
取材日(2021年10月5日)※年齢・地域は取材当時のものです。
自ら確認した「甲状腺の乳頭がん」
病気がわかったのは、8年前の27歳の時です。首の左側が腫れているのに気がついて、近所の耳鼻科を受診しました。少し前からだるさや疲労感を感じていましたが、三交代勤務の看護師の仕事と、趣味のミュージカル観劇で全国を飛び回るアクティブな生活をしていたので、そのためだとあまり気に留めていませんでした。
紹介された総合病院では、血液検査、エコー検査、CT検査に続いて細胞診検査をしました。検査後、「とりあえず手術で取りましょう」と医師から言われました。私が医療従事者だからなのか、若いからなのかはわかりませんが、はっきりと「がん」とは言われなかったので、私から質問して「甲状腺の乳頭がん」だとわかりました。そして最終的に呼吸器外科で手術をすることになりました。
診断後も看護師の仕事を続けていました。日中の仕事を終えて一人になると不安が膨らんでずっとネット検索をしていました。がん患者さんへの就労支援は今でこそ一般的になりましたが、当時の私は主治医と手術や治療のことを話すのが精いっぱいでした。若い看護師ががんになった前例がない職場だったので、相談をしながら手探りで働き方を選んでいきました。
新人時の配属先「呼吸器(外科)」の縁がつないでくれた放射線治療
甲状腺がんは若年層では比較的進行が遅いのですが、私の場合はすでに甲状腺のほとんどががんになっていて全て摘出することになりました。腫瘍の大きさを画像で見せてもらい簡単な手術ではないことがすぐにわかりました。主治医が説明する手術のリスク「元に戻らない可能性」という言葉が、やけにリアルに感じられました。実際に1回では腫瘍が取り切れずに半年後に2回目の手術を受けました。
再発リスクがある甲状腺がんでは放射性ヨード治療を受けるのですが、事前にホルモン剤の休薬とヨードの摂取制限をして体内の甲状腺機能を低下させてから、放射性ヨード(カプセル薬)を飲んで、体の内側から放射線でがんを焼き切る治療です。
当初、この放射線治療を受けるのに1年半待ちと言われました。その時の主治医も早く受けられるように手を尽くしてくださったのですが、富山県内の施設数が限られていて早めることはできませんでした。そのことを勤務先の病院で話したところ、新人時代の配属先であった呼吸器外科の先生が、院内で計画されていたもののまだ稼働していない放射線治療施設があることを知り、私だけでなく富山県内で必要としている人が待っているのだからと尽力してくださって、稼働開始時期を予定よりも早めてもらえることになったんです。おかげで手術から半年後に、この施設の放射線治療1例目になることができました。
初めての配属先が呼吸器外科で、がんが甲状腺にできて、主治医やその周りの呼吸器外科の先生の働きかけで多くの方が動いてくださり、放射線治療が早期に実現して・・・とてもありがたかったですし、ご縁を感じました。
がんになった看護師は何をしたらいいのか
手術後1か月の休職期間中は「富山」「若年がん」「AYA世代」といったキーワードでネット検索に明け暮れていました。なかなかヒットしないと「富山に若いがん患者は私一人かも」ととても不安になり、たまに同年代の甲状腺がんの人を見つけると希望が湧いてきました。情報が少なくて、甲状腺がない状態で看護師を続けるイメージが持てず、将来が見えないというのが、とてもこわかったのを覚えています。
その頃は、がんになった理由や意味についてよく考えていました。がんになった看護師は何をすればいいのか、何を目標に生きていけばいいのか。それがわかれば楽になると思い、その答えにたどり着くことにとらわれていました。
そこから抜け出すきっかけは、患者会でした。様々ながん患者さんと出会って、同年代のがん経験者と交流するうちに、がん患者さん一人ひとりの生き方が見えてきました。がんになったことを活かしても活かさなくてもどちらでもいい、自由に好きに生きればいいと思えるようになって、徐々に気持ちが楽になりました。
医療職だから見えたこと
復職後は、夜勤は難しいと考え、日勤の空きがあった外来化学療法センターに異動しました。しばらくは、患者さんの気持ちに共感しすぎることがありましたが、次第に仕事に慣れてくると看護師として多くのことが見えてきました。まず、がんには医師や薬剤師など院内の多職種が連携していること。病院の外ではがん治療を可能にしてくれた研究者や、副作用対策でフォローしてくれる製薬企業の担当者なども関わっています。前は「若い世代のがんは孤独だ」と思っていましたが、いろいろな人に支えられていました。
そして、おそらくこうやって生きていられるのは主治医が難しい手術を成功させてくれたからだということ。だから、今があるのは当たり前ではないと感じて、同時に、多くの人のおかげでもらった今を目の前の患者さんに還元していきたい。そう思うようになってから、仕事が楽しくなりましたし、目標がみえて頑張れるようになりました。
「がん看護専門看護師」を目指したのもその頃です。イメージではなく、プロとしてきちんとした科学的データに基づいた看護がしたいと思いました。また、研究で薬やデータを重視する医師は多いのですが、実際の患者さんのことを知っている人は多くありません。よりよい医療を提供するには、がんの専門性を高めて、研究者に患者さんの声や現場の状況を伝えることが必要だと考えたんです。
患者が自分で解決する力をもつための患者会活動
看護にあたっては、患者である自分が前面に出ると感情的な思いが強くなって押しつけてしまいます。医療者と患者の両方の立場がわかるからこそ、看護師としてはプロに徹して、専門性を高めて冷静に患者さんのためのよりよい医療を提供することを心がけています。
昨年9月に立ち上げた富山県初のAYA世代の患者会「Colors(カラーズ)」は、治療に関する悩みを共有したり、検査結果でショックを受けた時の気持ちを吐き出したりする場になっています。患者会では個人の意見には危うさを感じるときもあります。一人の患者さんの治療経験がほかの患者さんにあてはまるとは限りませんし、場合によってはマイナスになることもあります。患者会は相談の場でもありますが、情報収集の場として活用し、その情報から患者さんが自分で解決できるようにすることが大切だと思います。
今後は、患者会を通して富山のがん患者さんの経験や気持ちを知る者として、AYA世代のがん対策に向けた提言や施策づくりに参画したいです。
がん患者の先輩がつないでくれた経験を次の世代のために
今、いろいろなつながりのおかげで、日本の甲状腺がんの患者代表として世界の患者さんとともにプロジェクトに取り組んでいます。医学研究や臨床試験への患者・市民参画(Patient and Public Involvement:PPI)が重視されていますが、誰でも参画できるわけではありません。私は患者でもあり、医療の知識もあり、がん専門看護師でもあったので、患者としてグローバルの治験に関わらせていただいています。ほかに妊よう性のガイドライン策定にも関わることになりました。
不思議なのですが、私が一生懸命に動いていると、声をかけてくれる人がいて、良い経験や学ぶ機会を与えてもらえるんです。見守ってくれるがんの先輩にとても助けられてきましたし、今、突っ走っていられるのも患者の先輩や支援してくださった方々のおかげです。そういう姿を見て、今の患者さんのために私ができることをしたいと思っています。
プラスアルファで生きている
2年前にプライベートでニューヨークに行きました。治療と体調が落ち着いていましたし、専門看護師の試験を終えて大きな仕事をやり遂げたので、よく頑張った自分へのご褒美です。ブロードウェイミュージカルはがんになる前からの憧れで、夢をかなえることができました。
初めて手術を受けた時、もう終わりかもしれないと思いました。だから今生きているのは当たり前ではありません。生まれ変わったような、プラスアルファで生きているような感覚なんです。今年の4月に再発がわかって3回目の手術を受けた時も、信頼できる主治医のおかげで安心して受けられました。無事に手術を終えて、さらに生かしてもらっているという感覚があります。
ただ、今はあまり大きな夢を描くことはしていません。夢をもつと焦ったり、できない自分にもどかしさを感じたりしますし、実際に思い通りにならないこともあります。だからその時々で自分のからだの声を聞きながら、「いつか」の夢よりも「今」できることに力を向けて生きています。
- 監修:がん研有明病院 腫瘍精神科 部長 清水 研 先生
2024年2月更新