歯科医として患者さんに寄り添いながら、いつかは地域の子どもたちに勉強の場もつくりたい

鈴木 綾子さん(33歳)東京都
発症14歳/脳腫瘍

取材日(2022年9月21日)※年齢・地域は取材当時のものです。

脳腫瘍が見つかったきっかけは、目のかすみの症状

鈴木 綾子さん写真

中学1年生の終わりごろ、部活で友だちとトラブルがあり大泣きをした翌日に、目がかすんで見えにくくなったのが眼科を受診するきっかけでした。視野が欠けていることがわかり、大きな病院で診察を受けるように言われました。大学病院で、はじめはぶどう膜炎を疑われたのですが、CT検査により脳腫瘍が見つかりました。

思い返すと、この出来事よりも前にいくつかの自覚症状がありました。例えば、授業で見た映画の字幕が見えにくくノートをとるのに時間がかかったり、障害物に気づかずに手をぶつけてけがをしたり。トイレの間隔が短くなって授業中のトイレをガマンしたり、やたらとのどが渇いて頻繁に水を飲んでいた記憶もあります。

脳腫瘍は、腫瘍ができた場所によって、脳が司る様々な機能に支障が出て症状として現れます。私の場合は、視神経が交叉する近くに腫瘍ができたことで視野狭窄がおこりました。人間は、見えにくい部分があっても、ほかのよく見えている部分の目で補うために日常生活で目の異常を自覚するのが難しいため、早く見つかったことは幸運でした。

家族も一緒に脳腫瘍と向き合ってくれる中で、今も受け入れ途上にいる

病気については、主治医から説明を受けた両親が私に説明してくれました。その前年に祖母が胃がんで入院したこともあり、私も多少の知識がありました。そのため「脳腫瘍」ときいて、自分の病気の重大さはなんとなくわかりました。

医師である父は、医学書のコピーを見せながら丁寧に説明をしてくれました。父の動揺のない態度を見て、「治らなかったらどうしよう」という心配よりも、「治るから治療するんだろうな」と安心したのを覚えています。

ニットキャップの写真

治療は、鼻からの内視鏡手術より開始されました。手術後に視野が戻らない可能性があることを告げられていましたが、今はメガネをかけながら、視野狭窄はありますが生活できています。

入院中も、退院後も今日に至るまで、父はどっしりと構えていてくれて、母は私が泣くと一緒に泣いてくれます。医師になった兄も含めて、私の病気にずっと家族で向き合ってくれています。病気になってから20年近くが経っているのですが、後遺症として尿崩症があるので、今でも毎日服薬しています。生活の色々なところに影響があり、病気そのものを理解して一生付き合う覚悟という意味では、まだ受け入れ途上なのだと思います。

悩みながらも勉強は大きな支え。努力と苦労の末つかんだ大学合格

両親が町医者であることもあり、医師になることが私の夢でした。幼いころ、患者さんとして病院に来られる近所のおじいさんやおばあさんに育てられてきたので、私自身も患者さんに何かできることがあればいいなと思っていました。

元々勉強は好きで、中学1年生で病気になってからもずっと勉強をしてきました。そうさせてもらえた家庭環境にはとても感謝しています。 入院中は、目が見えなくなるかもしれないから今のうちに勉強したいと思って、英検を受験したり、体調が悪かったとしても院内学級でみんなと一緒に勉強することで自信をもったりしました。だから入院中でも勉強ができる、というのはあの頃の自分にはとても大事だったと思うんですね。勉強すると、「退院したらこうしよう、こうしたい」というポジティブな考えが浮かぶようになるんです。私にとっては勉強だけが退院後を考える唯一の支えだったような気がします。

入試勉強のテキスト、ノートの写真

高校は浪人せずに進学しましたが、大学受験は高校受験以上に苦労しました。英単語の暗記などコツコツ積み重ねる勉強ができず、当時はまさか暗記しづらい原因が病気にあるとは思っていなかったので、自分の努力が足りないんだと思い、大泣きしながら勉強していました。それでも、入院中に出会った大好きな友達との約束だったので諦めることはしませんでした。

そしてようやく大学に合格し受験が終わった時に、母から実は脳腫瘍の影響で記憶障害があったと聞かされました。その時は、暗記が極端に苦手だった原因に納得できたと同時に「早く言ってよ!」と思いました。でも、記憶障害という逃げ道があったら途中で逃げてしまっていたかもしれないので、結果的には記憶障害を知らされなくてよかったと思っています。

思い描く今後、やりたいことはたくさん!

大学は歯学部に通い、今年、ようやく歯科医になることができました。今の一番の目標は、どんな患者さんが来てもどっしり構えてなんでも診てあげられるような、患者さんに寄り添うことのできる歯科医になることです。

歯科医として働いている写真

その他に思っていることは、いつか結婚をしたいということです。高校生の頃は、ホルモンの関係で妊娠ができないなら結婚は難しいし、恋愛もできないと考えていました。今は、もし産めなかったとしても里親になるという選択肢や、パートナーと二人で暮らしていくという選択肢など、色々な家族の形があっていいんだと考え始め視野が広がりました。

そして、小児がんの子やAYA世代の人に伝えたいことは、人生はこの先も続いていくのだから、病気によって勉強を諦めたりせず未来のことを考えてほしいということです。漠然とした不安があると、がんばれる闘病もがんばれなくなってしまいます。だから、入院中も退院後の希望を持ってほしいと願っていますし、そのために少しでも貢献できたらとおもっています。今は、SNSの交流で同じ病気のお子さんのお母さんたちに自分の体験を伝えたり、私の悩みを聞いてもらったりしています。

病気をした子でも、していない子でも、地域に寺子屋のような勉強できる場所が必要なのではないかと思い、いつか子どもたちの学習の場を作りたいと思っています。歯科医として患者さんに寄り添うとともに、困っている子どもたちをサポートできる人でいたいなと思います。

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  • 監修:がん研有明病院 腫瘍精神科 部長 清水 研 先生

2024年2月更新