やりたいことは今やろう。離島移住の夢をかなえ、これからもやりたいことを見つけていきたい

坂口 菜夏さん(28歳)東京都
発症22歳/骨肉腫

取材日(2023年9月19日)※年齢・地域は取材当時のものです。

社会人1か月、足の痛みで整形外科を受診

大学卒業後、相談員の仕事を始めたばかりの4月中旬、家庭訪問先で和室に通されて1時間くらい正座をする機会がありました。その時、膝の下の違和感に初めて気が付きました。膝の下にぼこっとしたしこりがあり、座ると少し痛みました。しばらくすると歩き続けた日には夕方くらいから足が痛むようになり、ゴールデンウィーク初日に整形外科を受診しました。

X線検査では左膝の下に“ちょっともやもやしたもの”が見つかり、次のCT検査で白く見えるはずの骨が真っ黒に見えていました。医師からすぐに大きな病院に行くように言われ、がん専門病院をいくつか紹介されました。その時点で「何かまずい病気」が見つかったなと思いました。

一方で社会人になってわずか1か月の私には、仕事のことや研修のことで頭がいっぱいで、自分の足について危機感を感じる余裕がなく、病院に行くのも後回しにしていました。

骨肉腫と言われても、がんになったという意識はなかった

ひとりでがんの専門病院に行き、もう一度レントゲンとCT検査を受けました。その日のうちに主治医から「骨肉腫の可能性が高い」と言われ、骨折でがん細胞が飛び散らないように骨折予防の松葉杖を処方されました。この時は、骨肉腫ががんであることも知りませんでしたので、自分ががんになったという意識はありませんでした。家族には電話で色々な検査をすることになったとは伝えましたが、あまり深刻に考えていませんでした。

坂口さんの写真

翌日、職場の上司に「病気が見つかったので長期入院をするかもしれない」と状況を報告しました。まだ自分の足に何が起きているのか分かっておらず、自分ががんであることの受け止めはできていませんでしたので、説明はしているもののほかの誰かの話をしているような感じでした。

確かに左膝にはぼこっとしたものがある。でも普通に歩けるし、1時間ぐらいかけて通勤もできる。それなのに松葉杖を使って周囲から配慮される立場になるのは嫌。そんな風に思い、できるだけ周りに心配されないように過ごしたいと考えていました。

妊孕性に関して一番知りたかったのは、同じ体験をした人の言葉

初診の1週間後に今度は家族と生検手術のため、病院に行きました。結果、骨肉腫と診断されそのまま入院しました。がん相談支援センターでは「抗がん剤を受ける方向けのパンフレット」や、「小児、思春期・若年がん患者の妊孕性温存に関する診療ガイドライン2017年版」の骨軟部のページのコピーを手渡されました。

妊孕性については、相談員さんがパンフレットを読みながら詳しく説明してくれましたが、内容が全く頭に入ってきませんでした。さらに詳しい話を聞きたければ専門病院を紹介するので週末の2日間で妊孕性温存を検討するかどうかを考えてくるように言われました。

入院中の写真

今振り返っても、どのように2日間を過ごしていたのかはあまり覚えていないんです。「自分ががんになったことを理解して、妊孕性のことも考えなくてはならない。何をどう考えたらいいのか分からない。詳しく教えてくれる病院に行ったところで、何を聞けばいいのだろう。」そんな状況でしたので、将来のことを決めるのはとても難しいことでした。

妊孕性の温存をする方法を取ることでがんが進行するかもしれないなど様々な不安がありましたが、真っ先に考えたのは、早くがん治療を終わらせて職場に戻りたいということでした。土曜日には、妊孕性温存をすることによる家族や周囲への負担の申し訳なさから妊孕性の温存はしないと決断しました。

妊孕性の問題は、骨肉腫と診断された時よりもつらかったです。22歳で、将来、子どもを持つことができないかもしれないと知ったんです。お金の面や治療方法はパンフレットに載っていましたが、私が知りたかったのは、実際に妊孕性について考えた方がどう決断しその後をどのように生きているのかということでした。今、28歳になって、同級生が結婚したり、子どもができたりすると、やはり妊孕性について思い出すことがあって、あの時、違う決断をしていたらどうなってたんだろうと考えますね。でもあの時決断をしたのは自分ですし、いつかこの選択をして良かったと思える日が来るのかなと思っています。

そういうこともあって、妊孕性温存の壁に直面した方に向けて、当時の自分が知りたかった情報を届けたいとゆっくりですけど活動しています。

「治療を決めるのは私自身」主治医の言葉で治療を継続できた

自分ががん患者だと自覚したのは、最初の化学療法で真っ赤な抗がん剤が体の中に入ってきた瞬間です。治療の副作用で吐き気や脱毛が現れた時にも「あ、テレビで見たのと同じことが自分の身にも起きている。」と思っていました。

パンフレットの写真

ただそれは病気を受け入れたわけではありません。がんを受け入れる間もなく、治療はしなければならないものと思いながら、治療をしていました。それもあって、手術後のリハビリも進んでもう少しで終わるという段階で化学療法をやめたいと思うようになりました。

それまでは、治療をしてくれる主治医に対して患者から「治療をやめたい」なんて言えないと思っていましたが、看護師さんの前で泣いてしまうほどどうしても気持ちが下がってしまって「何のために治療をしているのか分からなくなった。治療をやめたい」と口に出しました。すると私の正面に体の向きを変えた主治医が「自分としては治療をやめて欲しくないけど、続けるかどうかは最終的には坂口さんが決めること」とおっしゃったんです。その時、初めて、自分で治療を選択してもいいんだ、私が治療を決められるんだと思いました。

ちょうど同級生が病気で亡くなった時期とも重なり、できる治療があるなら治療しようと考えが変わりました。同級生の死や先生とのやりとりがなかったら、きっと治療をやめていたと思います。

同世代の同じ病気の人とつながりたくて、交流会、患者会、そして主治医に相談

同世代の患者さんとつながりたいと思って、病院のがん相談支援センター主催のAYA世代交流会に参加したことがありました。交流会自体はとても楽しかったのですが、受付の対応が事務的で2回目は参加しませんでした。実は、患者を経験している身だからこそ伝えられることがあるのではないかと思い、がん相談支援センターの相談員として働いたことがあります。いざ相談員になると、とにかく忙しくて、思い描いた相談の仕事とはかけ離れていました。その時の受付もきっとそういう状況だったのだと思います。

 

また入院中、とある患者会に入会しました。同じ病気や同世代の患者さんに出会って、色々な面で共感しあったり話を聞いてもらったりできるのかなと期待していました。でも患者同士であっても状況が違えば意見や気持ちも違うんですよね。自分に合う人を見つけるのは難しいと感じました。

坂口さんの写真
 

同世代で同じ病気をしている方に出会うために、私が一番良かったと思うのが、主治医に相談したことです。主治医になんでも相談してみようと思い、「同じ世代で同じ病気の方を紹介して欲しい」とお願いし、私よりも少し前に治療を終えられた方をご紹介いただきました。治療後の仕事や恋愛の話、冬になると人工関節が痛むかもしれないなどの日常生活の過ごし方を教えてもらったり、自分の話を聞いてもらったりしました。患者の少し先輩だからこそ、とても頼りになる存在です。

患者を楽しむことを心掛ける

ウィッグを楽しまれている写真

主治医と初めて出会って1週間くらいの時に、主治医に自分の性格を言い当てられて「気持ちを抱え込まずに、何かあったら言うんだよ」と言われました。ぽんと背中を押された気がしました。それからは、入院中も比較的、笑顔でいることが多かったと思います。

抗がん剤治療の副作用の脱毛や吐き気はつらかったのですが、落ち込んでても変わらないし今しかできないことをしようと、患者を楽しむように心掛けました。可愛いウイッグを見つけて、2つ3つ買って着けて、「髪の毛がないのはしょうがない、ウイッグを楽しもう」と思っていました。治療後には、お気に入りのウイッグを着けて好きなアーティストのライブに行ったり、野球観戦にも行きました。

やりたいことは今やろう―離島への移住を決断

今、伊豆諸島にある小さな島で暮らしているのですが、がんになってから移住したんです。小学生の時に『Dr.コトー診療所』というテレビドラマを見て衝撃を受けました。また、学生の時には過疎と言われる地域で本当に困ってる人のために仕事をしたいと思うようになりました。「いつか」やろうと思っていたのですが、がんになって「いつか」って来ないかもしれないなと気付いたんです。やりたいことがあるなら今やりたい、今やろうと思っていたら、島で福祉の仕事の求人を見つけたんです。これは今しかないと思いました。

母に言ったら心配して止められると思ったので、いきなり「二次面接があるので島に行ってきます」と事後報告をしました。順調に採用が決まり、「もう決まったから行きます」と伝えました。母はもう何を言ってもだめだなと思って送り出してくれました。

主治医からも心配されると思っていましたが、意外にも「いってらっしゃい」みたいな感じで送り出してくれました。今も、年に1回通院していますが、いつも応援してくれています。

カートに乗っている写真

転職活動では、病気のことを応募書類に記載したり、リモートの一次面接でもできないことについて伝えたりしました。仕事をする上では、周りの理解が不可欠ですので、あらかじめ全部伝えておこうと思いました。ほかの方の経験談でも最初から病気のことを話している方が多かったのでそれも参考にしました。結果、こちらの状況を考慮して職種を検討してくださり無事に採用となりました。

坂道がとても多い地形で、免許証を返納した高齢者の方に電動カートを貸し出しているサービスがあるのですが、そのカートを私も使わせてもらったおかげで日常の不便はあまり感じていません。さらに、「カートに乗っている若い人」は目立つので、色々な方が私のことを覚えてくださり、仕事をする上でもとても役立っています。

離島への移住もそうですが、やりたいって思ったことは今、やるようにしています。自分の経験を発信することもその一つです。これからも自分と向き合って、やりたいことを見つけていきたいなと思っています。

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  • 監修:がん研有明病院 腫瘍精神科 部長 清水 研 先生

2024年2月更新