AYA座談会
治療のつらさと、居場所を失う苦しさ
(座談会開催日:2022年10月13日)
清水がんの体験は、人によってさまざまですが、10代の体験というのは他の年代とは全く違う点があるのではないかと感じています。学校生活や受験、自分の将来のことをいろいろと考える時期に自分ががんだと告げられてどのような感情や変化があったのでしょう。
上村がんがわかったのは16歳、高校2年生の夏でした。これから恋愛もして大学受験の勉強もがんばろうという時でした。首の右側にしこりができ、しばらくのあいだ放っていたのですが、2カ月くらい経っても治らないので気になって病院に行きました。そこで、突然「がんの可能性がありますね」と言われました。
清水突然「がんかもしれない」と聞いて、どのように思われましたか。
高校2年生の夏に首にしこりができました(上村さん)
上村先生の話を聞きながら、漠然と「大変だ」とは思いましたが、そもそもがんがどういうものかを知りませんでした。だから、先生に「え?それって何ですか?」と聞き返したくらいです。でも、病院帰りにカフェに寄って、ネットで調べてがんというものを知って、母と一緒に泣いたのを覚えています。
入院した時には、クラスの子たちが駆けつけてくれて。鹿児島県の県民性なのかもしれませんが、すごく温かかったです。周りから励まされ、友達にすごく恵まれたなと思っています。
岡野私の場合は、高校2年生の1月に骨肉腫が見つかりました。診断される1カ月ぐらい前から、左膝を曲げる際に違和感がありましたが、日常生活に支障があるほどではなかったので、しばらくしたら治るかなと思って放っておきましたね。それが、時間とともに膝が動かなくなって、どんどん痛みが出てきてしまって、いよいよ足をひきずらないと歩けないほどになっても、「疲労骨折なのかな、よくわからないけどそういうものなのかな」と思いながら、軽い気持ちで、母親と一緒に整形外科クリニックに行きました。 レントゲン撮影を終えると先生が急に慌て出して、緊急でMRI検査も受けました。検査から戻ってくると、千葉県のがんセンターを紹介されました。何が起きているのかわからなくて呆然としていましたね。「まさかがん?え?がん?」みたいな感じでした。がんセンターを紹介されるということは、自分はがんなのかもしれないが、まだがんと診断されたわけではない。自分の状態がわからない状況が一番怖かったです。 がんセンターでは、すぐに専門の先生に骨肉腫と診断されて、翌日から入院することになりました。ここでも、がんと言われてもなんかぴんとこなかったです。わけがわからないまま、自分の人生がよくわからない方向に動き出してしまったんです。17歳の私が考えるがんは、テレビとかドラマの中にあって、もっと年を重ねてからの病気で、ましてや、肺や胃など臓器の病気というイメージがあり、骨肉腫という病名すら聞いたこともありませんでした。
清水学校や友人の方にはどのように伝えましたか。
入院中に18歳の誕生日を迎えました(岡野さん)
岡野診断されたその日に、校長先生と担任の先生に話をしました。主治医の先生から骨肉腫の治療には短くても9カ月、長いと1年ぐらいの入院生活が必要になると言われましたので、休学する手続きをしました。残りの高校生活が1年間で、1年近く入院することになる、ということは高校を3年間で卒業できないのではないか、大学もこのままだと行けないのではないか。頭の中には不安しかありませんでした。昨日までふつうに学校に行っていましたから急に1年近く行かなくなるという現実をクラスメイトにも言うことができませんでした。結局、病気について話をしたのは、入院から2カ月ほど経ってからでしたね。こんな風に、がんになった自分というものを受け入れられないまま入院生活が始まりました。
清水岡嶋さんも、発症は高校生の時でしたね。
岡嶋はい、17歳の時に脳腫瘍が判明しました。私は、高等専門学校、いわゆる高専で寮生活をしていて、それまで特に体調不良はありませんでした。それが、3年生になる春休みに実家に戻った際、トイレで倒れてしまったんです。実家にいるうちに診てもらっておこうと思い親と総合病院に行きました。数日後、結果を聞きに両親と病院に行くと、ドクターから「脳に腫瘍があります」と言われました。その日から検査入院が始まり、2週間ほどで先天性の脳腫瘍と診断されました。恐らく小さい頃からがんの種のようなものがあって、徐々に大きくなったのではないか、との説明がありました。
初めてドクターから脳腫瘍と聞かされた時は、「ん?この人は今何を言ってるんだ?」「脳に腫瘍があるって?」と頭の中が混乱していました。自分のことではなく、まるでドラマの世界に入ったような感覚でした。
島野みなさんの話を聞きながら、あの頃の感情を揺さぶられるような、探られるような気持ちになりました。私の場合、高校3年生の時にがん以外の病気にかかっていて、それが治った矢先、19歳の時に悪性リンパ腫になりました。本当に、「がーん」って主治医に言ってやろうかというくらいのテンションで、正直、とても軽い気持ちでいました。
清水高校3年生の時の病気について少し教えていただけますか。
島野通っていた学校が進学校で、周りも、親も、先生も、学歴至上主義という環境の中にいました。大学受験は当然で、勉強しなきゃいけないというプレッシャーがある生活をしていたのですが、ある日突然起きられなくなり、そのまま寝たきり状態になってしまいました。その時は、ああ、人生終わったと感じました。
高校を卒業して浪人生として受験勉強をするぞって思った時に、胃が痛くなり病院へ行きました。診察した先生には「若いし、ストレスだよ」と言われましたが、しばらくしてまた同じような胃痛があり、胃カメラで腫瘍が見つかりました。見た目がきれいな腫瘍でしたので、きっと良性だから手術すれば2週間ぐらいで治るだろうと、まだ軽い気持ちでいました。
清水加茂さん、がんがわかった経緯を教えてください。
急に激しい腹痛があり、病院に駆け込みました(加茂さん)
加茂最初にがんがわかったのは18歳の時でした。高校3年生の時に微熱が続いて、食欲不振でご飯が食べられなくなりました。大学受験のストレスなのかなと思ってずっと放っていました。現役の受験がうまくいかず予備校に通い始めて1カ月後ぐらいに、急に激しい腹痛がありました。本当に倒れるぐらいの腹痛で病院に駆け込み、検査の結果、がんだとわかりました。正確には、腫瘍が何かはわからないけどとりあえず取り除こうということで、診断前にお腹を開きました。その開腹手術の後にがん告知をされました。
私も、みなさんと同じように、自分ががんだという実感がなく、とにかく戸惑いました。最初に告知された病名は滑膜肉腫で、のちに詳しい検査の結果「肝未分化胎児性肉腫」だと判明したのですが、全く聞いたことがない病名で、最初はそれががんなのかどうかさえわかりませんでした。ただ、紹介された病院が国立がん研究センター中央病院だったので、自分ががんであると知ったというか、がんを受け入れました。
清水高校生で病気をして、どのようなことがつらかったのでしょう。
上村単純に学校に行けないのが一番つらかったです。高校では、English Speaking Society(ESS)に所属して、ディベートの全国大会を目指していました。がんと告知されたのが、ちょうど部活でキャプテンに就任した1カ月後ぐらいでしたので、焦りは大きかったのですが、あまり考える間もなく、すぐに手術、次に化学療法が始まりました。化学療法が始まると、高校の授業には通わずに部活だけずっと行き続けていました。始めのうちは副作用が比較的軽かったこともあって、部活に打ち込むことで治療のストレスを解消していました。部活動だけが心の拠り所という感じでした。
岸田私もESSだったけど、ディベートは、頭をフル回転させて活舌よく話さないといけないですし、論理的思考の準備も必要です。とても抗がん剤治療をしながらできる活動ではないように思いますが。
上村実は、化学療法の2コース目を受けた直後に、一人で電車登校している際に倒れてしまって、たまたま近くにいた友達が高校まで運んでくれたことがあります。
一番つらかったのは治療が終わってからでした。留年して2回目の2年生と3年生は1学年下のクラスメイトたちとなかなか打ち解けることができずに、卒業を前に高校を中退しました。日本特有かもしれませんが、高校生活では先輩後輩、一種の年功序列のような関係が色濃くあるんですよね。もともと後輩だった子たちからしたら、僕は、「1学年上から降りてきたちょっとかわいそうな人」で、腫れ物みたいな扱いを受けることが結構多くて、なかなか馴染むことができなかったんです。
チャット
岸田年下とは仲良くなりづらいですよね。同じ高校だと。
岡嶋同じ境遇だったので心が痛むほどに良くわかります。。。高校生の1個違いは大きいですよね・・・
入院中のベッドで(岡嶋さん)
岡嶋その気持ち、すごくわかります。私は、1年生から5年生まで寮生活をしていたのですが、挨拶や掃除など厳しい上下関係のルールがあって、一学年の違いはとても大きかったです。退院して、これまで後輩として接してきた子たちのクラスに、同級生として入ることになったのですが、溶け込めない苦しさがありました。
岸田学生だと学校やクラスが自分の生活の多くを占めると思います。クラスが運命共同体みたいな感覚もあると思うので、そこに居場所がないのはとてもつらいですね。
清水高校生のがん体験のつらさをもう少し教えていただけますか?
岡嶋入院中は、SNSを見るのがつらかったです。見ると落ち込むとわかっているのですが、学校の行事や楽しそうな同級生の投稿をつい見てしまいます。それで疎外感というか、独りぼっち感に苛まれて切なかったです。
上村友人関係のほかに、容姿の変化による影響もありました。僕はウィッグを被っていたのですが、わかる人が見ればわかります。入院する前後を比べてちょっと髪型変わったねって周りの人から言われるようなことも結構ありました。外見の変化と、周りの空気に溶け込みにくいっていうつらさは大きかったです。
清水学年が違うと別の存在、ウィッグをしていると異質。同質ではないことに高い壁を感じられたんですね。
上村異質って言葉は的を射ていると思います。僕は異分子みたいで、教室に溶け込もうにも溶け込めないという感覚がありました。
清水島野さんはがんになる前、高校3年生で寝たきりになった時はどんな感じだったのでしょうか。
きっと良性だからすぐ治ると軽い気持ちでした(島野さん)
島野その時は、がんよりも精神的につらかったです。周りに置いていかれるという焦りもあり、それがすごくつらかったです。当時は、いい成績を取っていい大学に行かなければだめ、という価値観の中で生きていました。その考え方しか自分にはなかったし、周りの大人もそういう考え方だったので、親に対して、「私の体調より学歴が大事なんでしょ」と反発して、親とは理解し合えませんでした。
- 監修:がん研有明病院 腫瘍精神科 部長 清水 研 先生
2024年2月更新