AYA座談会
死を感じつつ、生きるを重ねる
(座談会開催日:2022年10月13日)
清水治療に対しては、どのように感じていましたか?
岡嶋埼玉県の病院で水頭症治療の手術、その後、北海道で腫瘍摘出の開頭手術、また埼玉県に戻って抗がん剤と放射線の治療を3クール行いました。私の場合、ホルモンが分泌される脳の下垂体というところに腫瘍があって、岸田さんと同じ胚細胞腫瘍という種類でした。当時の医師から、この腫瘍は薬剤が効きやすいタイプであるという説明があったのですが、治療を始めるまでは、「これからどうなるんだろう?」「死ぬのかな?」と、先を考えれば不安しかありませんでした。
治療を始めるまでは不安しかありませんでした(岡嶋さん)
実際に治療が始まると、本当につらくて、先のことを考える余裕もなく、その日その日を生きるというように気持ちが変わっていきました。下垂体を全摘しているので、脳腫瘍の治療が終わった後も、ホルモン薬を毎日飲む生活が一生続くことになりました。
清水治療が終わっても毎日、服薬されているのですね。加茂さんは、治療に対してどのように感じていましたか?
加茂私の場合、1回目の手術で腫瘍を取り切り、そのまま経過観察となりました。それが、手術の2、3カ月後には再発しました。とてつもなく大きくなっていて、腫瘍の直径は15センチくらいでした。お腹の左側に腫瘍があり、出っ張っていたので妊婦さんのようでした。再発した時は、薬剤で腫瘍を小さくしてから手術することになりました。ものすごくありがたいことに治療の効果があり、無事に手術できることになりました。2回目の開腹手術で、胃と膵臓と脾臓と横隔膜の一部を広範囲で切除しました。
メンタルの話をしますと、がんになって戸惑いや治療に対する不安はもちろんありましたが、治療に対しては「もうやるしかない」と思いました。やるか、死ぬか。やらなきゃ死ぬと思ったので、迷いは一切ありませんでした。性格的に強めのタイプなので、治療に対しても強気で臨んでいました。治療はつらかったですが、ドラマなどで見ていた副作用のイメージよりは楽だなと思いました。吐き気や髪の毛が抜けるのはすごくショックでしたが、つらいと思いながらもこんなものかという気持ちでした。
岡野治療が始まると、ほどなくして一日中続いていた左膝の痛みがなくなりました。治療で痛みがなくなったことを知った瞬間、初めて「あなたはがんです」と言われた気がしましたね。それが自分自身にとっての最終宣告みたいな感じでした。
清水その最終宣告と感じた時はどんな気持ちでしたか。
岡野ようやく自分はがんだと実感すると同時に、治療の9カ月間を本当に乗り越えなければ、死ぬかもしれないと意識しました。治療中は副作用で食欲がなくなり、体重が10キロ以上減りました。それと、私の場合は膝の病気でしたので、左膝が骨折してしまうと足の切断もあり得るということで、できるだけ負担をかけないように移動は車いすで、自分のベッドから自由に動くこともできませんでした。どんなにつらくて逃げ出したくても逃げ出せないわけです。仮に逃げ出せたとしても、自分の近くには死しかないとも感じていました。
9カ月後の自分を思い描く余裕はなく、めちゃめちゃしんどいけど、とりあえず今日を終えるということだけを考えて、どうにか一日一日をやり過ごそうと思っていました。
チャット
岸田副作用でたらキツイですよね。
島野逃げ出せない感覚つらいですよね、、
岸田ですよね。物理的にも逃げ出せないっていう。
清水大学受験をがんばろうと思っていたところで、足を切断するかもしれない、そもそも人生自体が終わってしまうかもしれない状況を、当時17歳の岡野さんの心は、どのように受け止めたのでしょう。
最近は、のんびりと遠出したりしてます。今年は日光に行きました(岡野さん)
岡野入院直後は、真正面から今の自分を受け入れて治療をしながらも受験勉強ができたらいいなと思っていました。でも、入院生活が始まったら、起きているのもつらすぎてとても無理でしたね。病気についてどれだけ調べても、多くの情報の中で何が正しいのかわからないので、治療はとにかく主治医の先生や看護師の方に全部任せて、自分であれこれ考えたり、感じたりする部分をなるべくシャットアウトしようとしました。
この苦しさから抜け出すには、早く入院生活を終えるしかない。そのために、今この瞬間をなんとか過ごすということ、死なないでいるということ、それだけを意識してなんとか時間を過ごしていたという感じです。
チャット
上村ネットに溢れるがんの情報の取捨選択、とても難しいですよね
岸田ほんとそうなんですよ。ネット上の情報、ほんと溢れてますよね。情報迷子になりました。。。
清水がんになったことやつらい治療を受ける中で死生観は変わりましたか。
上村死について考えたことがなかったので、エリザベス・キューブラ―=ロスさんの『死ぬ瞬間』という、人間が死を受け入れるステップについて詳しく書かれた本を読みました。僕は、そもそもがんっていうものがどういうものかを知りませんでしたので、インターネットで悪性リンパ腫の基礎的な情報を調べるなかで、「5年生存率」という言葉を初めて知りました。悪性リンパ腫の5年生存率は、がんの中では比較的高い方と示されていました。それでも死ぬ可能性のある病気なのだと知った時に、自分の中で死生観が急変したように感じました。それまでは、特に何も考えずに「どうせまた寝たら明日が来るんだろうな」と考えていましたが、「もしかしたら死ぬかもしれない」立場になって、すごくありきたりな言葉かもしれなせんが、日常がとても有り難かったんだなと思えました。
清水キューブラー・ロスは私も読んでいて、死を受容するまでの5段階(右)が有名ですよね。でもそれは一つの考え方であって誰でもそういうふうに気持ちが動くわけではないとも言われています。
自分が死ぬなんて考えたこともなかった時に5年生存率を知って、上村さんはどんな風に感じられたのかをお聞きしたいです。
父の言葉で前向きになれました(上村さん)
上村まずは、否認から入りました。そもそも信じられなかったです。僕はそういう心境の時に父と一緒に5年生存率を見たのですが、その数字を見て父は「やった!」と思ったそうです。「これから、治療や手術の選択をしなければいけないけど、5年生存率の数字を見て、治療を受けない、治療を諦めるという選択はあまりにもったいないよ。これからもっとあなたの人生は輝けるよ」と言ってくれました。その言葉をきっかけに、僕はすごく前向きになれました。
チャット
岸田「やった!」と思ったか。ほう!いいお父さん。
岡嶋素敵な言葉!!
岸田親からの言葉ってすごく影響受けますよね。。
岡野家族の言葉は支えになりますよね。
清水お父さんが大きな勇気をくれたんですね。ほかの方も死について考えましたか。
加茂私が一番死を感じた瞬間についてお話しします。一回目の治療の途中で胃の内部から出血して倒れた際、次に出血したら心肺蘇生をするか否かの選択を迫られました。担当医が、万が一、次に出血したら止血する術がない、その時は心臓マッサージはしないと両親に説明している声が、記憶もあいまいな中、うっすらと聞こえてきました。親が書類に同意のサインをしたこの時が、私にとって一番死を感じた瞬間です。それまでは、死ぬ病気だとの実感がなくて、がんだと言われつつもどうにかなるでしょうと思っていました。でも、心臓マッサージって聞いた時に、一番死を身近に感じて、死ぬのはこわいと思いましたね。死生観が更新されたというか、そういう経験です。
清水誰にとっても死はこわいことですが、加茂さんのそれは次元が違うように思います。
入院中、髪を坊主にした直後(加茂さん)
加茂がんと言われて手術を受けましたが、それまでは、本当に死ぬ状況が想像できていませんでした。がんそのものを私は見たことがない。お腹に傷があるから手術で開いているのは確かですが、私から取り出されたものが本当にがんなのかを疑う気持ちもあるわけですよ、確かめようがないので。自分はがんだと理解しつつも、ふわふわっとした感じで、あまり実感が湧いていなかったです。でも、初めて倒れて、1時間以上経って目が覚めたら医療者に囲まれていた。私にとっては、心臓マッサージしませんっていう書類に親がサインしている光景がものすごいショックでした。自分の生死を決めるのに、私のサインじゃなくて親のサインで決まることもすごくもどかしい気持ちでした。
岸田サイン問題、ありますよね。未成年だからこそですね。私の場合、親は手術に反対でした。でも、私は20歳を超えていたので、自分で手術に同意しました。もしも未成年だったら、本人の意に反して手術ができなかったかもしれません。
清水治療を続けるか迷ったり、治療自体が嫌になったりしたことはありましたか?
岡嶋10月に退院が決まり、新学期までに授業を受けられる体力に戻そうと、バイトや運動をして、4月に復学しました。でも、1学年下の子たちのクラスで、人間関係もゼロという状態で始まり、さらに寮生活でも無理をしていたこともあり、5月の連休明けぐらいに自暴自棄になりました。ホルモン治療をしながら生きるのも嫌になって、薬をゴミ箱に全部捨てました。その後、私の様子がおかしいと感じた親が車で迎えに来てくれて、家に連れ戻されました。精神的にも鬱っぽい状態でしたので、一旦休学してゆっくりしようとなりました。
清水がんによって、10代の人たちの心が壊れてしまうのではないかと心配になります。
上村確かに壊れていましたね。悪性リンパ腫の標準治療は、6コース行うのですが、4コース目の2日目に腕の血管に針が全然入らなくなってしまい、「もうごめんなさい、今日は帰ります」って言って帰ってしまいました。そういう経験もしたくらいでしたので、心は何度も折れたように思います。
清水もうがんばれないみたいな気持ちになられたんですか。
上村そうですね。両親の間でも意見が違っていて、「多少つらくても今後の人生のことを考えて治療は最後まで続けなさい」と言う父と、「あまりにもつらいようだったらやめてもいいんじゃない」と言う母の間で悩んでいました。
チャット
岸田血管に入らない問題ありますよね。
岡野逃げ出したくなるくらい苦しい時期、私もありました・・・
岸田両親の葛藤、難しいなー。
島野私も同じ治療でしたが、副作用が本当に死ぬほどつらかったです。全身殴られるような痛みや、上と下に引っ張られるような感じです。その時は逃げるというより、少しでも苦しみを和らげたいと思いました。あまりにも副作用がつらすぎて担当医の質問にもきちんと答えられずに怒られたこともあります。1週間ぐらいして副作用が落ち着いて会話ができるようになったら、担当医からこんなに副作用のつらい人は初めてみたと言われました。2コース目までは通院で受けたのですが、何回も夜間の救急外来にかかるほど、とにかく副作用がつらくて。このままではもう我慢できないと感じて、主治医に「入院でなければやりません」と伝えたら、また喧嘩のようになってしまいました。その後、入院治療でなんとか最後の6クールまで乗り切ることができました。
治療後は、食べやすくて当時流行っていたタピオカがお気に入り(島野さん)
ご年配の方ですと、重い副作用が出る人は少ないのかもしれません。私の祖父母は抗がん剤治療中に海外旅行をしていましたし、仕事をしながら治療されている方もいらっしゃいます。でも、10代には副作用が重く出るかもしれない、ということも考えてほしかったです。
清水主治医とぶつかり合いながら、なんとか4カ月の治療を乗り切ったのですね。
島野治療に気持ちが追いつかない時もあり、計画通りに進めたい主治医に対して、結果的に反抗みたいになってしまうことがありました。卵子凍結保存の際も、10代で結婚すらしていない人が妊娠のことを考えられるわけもなく、主治医と意見が対立しました。何より治療のつらさをわかってもらえないことに葛藤が生まれましたね。
清水学校でも嫌なことを押し付けられていた島野さんにとって、スケジュールなどを押し付ける主治医は、耐え難い感じだったのかなって思いました。
島野当時は未熟で、子どもの言うことは聞いてくれるはずだ、自分の気持ちをわかってほしい、と思っていました。一方で、きちんと対等に話せるような環境は大切だとも思いました。10代には、大人と同じように意思があります。私の場合は、医療職の両親が診察室で私を差し置いて話を進めるのが嫌でした。ただ未成年だったのでサインの為に同席してもらわなければならなくて、そういうのも受け入れがたいものがありましたね。
- 監修:がん研有明病院 腫瘍精神科 部長 清水 研 先生
2024年2月更新