AYA座談会
「がんと就労」それぞれの選択、それぞれの道
(座談会開催日:2025年3月7日)
岸田 徹さん
岸田今日は、「がんと就労」というテーマで5人の方に集まっていただきました。お仕事や就業形態、がん種やステージが違うみなさんの、それぞれの経験をお話しいただきます。1つめのテーマ、がんと診断されたときの働き方について教えてください。
大島私は、6年ほど前に訪問型鍼灸院を開業し、罹患時は鍼灸師として愛知県近郊を回る仕事をしていました。一昨年の38歳の時に、肺がん(ステージ4)と診断され、遠隔転移も確認されました。
白石製造業の技術者として働いていた27歳の時に、甲状腺がん(ステージ1)と診断されました。転職して4か月ほどの時でした。勤務先は、東京の町工場で、従業員約50人の小規模な会社でした。
桑原罹患時は地元の工場で正社員として勤務しており、高校卒業後から働き始めて5年目、22歳になったばかりの頃に体調不良をきっかけにジャーミノーマという脳の中に胚細胞腫瘍ができる脳腫瘍になりました。勤務先は全国に複数の工場を持つ大規模企業で、従業員数は約4000人。社員のサポート体制も整っており、助けられた部分も多かったと感じています。
上郡私は悪性リンパ腫を2回経験しました。1回目は28歳の時、従業員約500人のIT系メガベンチャーに転職後半年のことでした。会社の歴史が浅く、がん罹患者は私が初めてだったのですが、柔軟に休職・復職の対応をしてもらえました。2回目は33歳の時で、従業員約1500人の人材派遣の会社でした。多様な雇用形態の社員が在籍していて、私はバックオフィスで人事を担当していました。この時も、転職して10か月後に再発しました。いずれも正社員で東京勤務でした。今は、また別の会社で働いています。
大西19歳の大学2年生の時に急性骨髄性白血病を罹患し、22歳で再発しました。初発の時は、社員数約70名の居酒屋チェーンで2年間アルバイトをしていた時です。再発は都内のテーマパークで勤務していた時です。再発を機にそのテーマパークは辞めて、今は、別のテーマパークのオープニングスタッフとして勤務しています。
岸田ありがとうございます。 ここからは、「がんと診断されて働き方にどのような変化があったか」をお聞きしたいと思います。大島さんは自営業ということで、会社勤務とは違うと思いますが、お仕事はどうされていましたか。
大島 直也さん
大島診断時は1泊2日の検査入院をしたのですが、治療は化学療法で分子標的薬を服用しているため、これまでほとんど仕事は休まずに続けています。検査の際に一時的に休むことはありましたが、入院2日目の午前中に退院して、そのまま午後から仕事に復帰したくらいです。
岸田病気のことを取引先やお客さんに伝えたりしましたか。
大島そうですね。休む際はまず連絡を入れました。訪問先は個人宅、高齢者施設、スポーツ施設などがあり、それぞれの責任者にがんの罹患についても伝えました。
岸田どんな反応がありましたか。
大島肺がんと診断される前から、声が非常にかすれていたんです。その原因が、肺がんの影響による反回神経麻痺だったと伝えると、一様に驚かれました。休業するか尋ねられ、「通院の時以外は休まない」と伝えると、さらに驚かれました。心配されながらも、その後も仕事を続けてきました。
岸田肺がんのステージ4という状態で通院以外は仕事を休まないというのは、僕も驚きました。
大島私の場合、最初に診断を受けて数日後にがん性の疼痛があり、体のあちこちが痛くなりましたが、痛み止めで抑えることができました。また、声のしゃがれや誤嚥は、気をつけて生活することで支障はありませんでした。肺がんのステージ4の治療は、放射線治療や手術ができず、化学療法のみです。幸いにも分子標的薬が自分に合ったため、それを飲み続けています。治療は飲み薬を飲むだけです。
岸田飲み薬の副作用はありませんでしたか。
大島ファーストラインの薬は1日2回の服用でしたが、副作用はほとんどありませんでした。今の薬は多少の副作用がありましたが、今はだいぶ楽になりました。というのも、以前は、今の薬を1日1回、朝に服用していて、吐き気やめまいなどの副作用があったため、服用のタイミングを主治医と相談して、夜に飲むようにしたんです。そうしたら、副作用が生活に与える影響が少なくなり、日中はつらさを感じることはなくなりました。
岸田つらいっていうのは倦怠感などですか。
大島倦怠感と吐き気と下痢ですね。ただありがたいことに、急激にお腹を下すことはなく、トイレのたびに下してるという状態でした。多分、ほかの方よりも副作用が少なかったんじゃないかなと思います。
岸田分子標的薬を続けながら、通院日に休んで、基本的に仕事は続けていると。
大島そうですね。10月に再転移があって10日ほど入院したんですが、まとまって休んだのはその時が初めてです。
岸田10日間休むことで、仕事に影響はありませんでしたか。
大島再転移が少し前にわかっていたので、時期や期間については事前に訪問先と共有していました。話をした時に驚かれたのはありましたが、休業の調整はスムーズでした。ただ、高齢者の施設で新たに受ける予定だった仕事が、他の方に変えられてしまいました。
清水症状があまりなかったので基本的には通常通り仕事を続けられていたようですが、がんと診断された後、一般的には、病気の受け止め方、仕事のこと、プライベートのことなど、さまざまなことを考える必要があると言われます。実際、心境としてはどうだったのでしょうか。淡々とやるしかないと感じていたのか、それとも必死に対処していたのか、その辺りが気になります。
大島最初は、本当に混乱してぐちゃぐちゃでした。淡々とこなしながらも、次の日に起きると「これからどうしよう?」と思ってがんのことを受け止めきれていない感じがありました。仕事に関しては、続けられるかどうかよりも、まず「どう説明しようか」を考えていました。一方で、以前からがん患者さんを支援する活動をしていて、患者さんがどのように感じているのかを理解していたので、受け止めるまでの時間は他の人よりも少し短かったと思います。
清水 研先生
清水淡々と語られてますけど、想像を絶するような“ぐちゃぐちゃな”感じだったのだろうなと思いました。ありがとうございます。
白石自分のケースは少し特殊かもしれません。当時の勤務先には、がんが見つかる約4か月前に転職しました。採用面接の際に、持病の「潰瘍性大腸炎」を話したところ、会社の人が潰瘍性大腸炎について理解があるようでしたので、良い印象を持っていました。それが、健康診断で指摘されていた腫瘍の精密検査を受け、甲状腺がんが判明したことを上司に相談したことで事態は一変しました。
岸田がんがわかって、働く状況が大きく変わったということですね。
白石しばらくして、会長、社長、総務担当者から別室に呼び出されました。これまでの経緯を説明すると、社長から「まず正社員の話は、無しにするわ」と言われました。次に、総務担当者がA4の紙をスーッと前に出しました。『退職届』でした。「一身上の都合により辞めさせていただきます」と私の名前が書かれてあり、その場でサインを求められました。その会社の非常に早い対応に、まるでドラマのようだと感じると同時に、冷酷な対応を目の当たりにして人間の冷たさを感じました。
岸田非正規雇用に変更するでもなく、いきなり退職するように言われたということですか。
白石 大樹さん
白石当初から、正社員の話は難しいだろうなと思っていました。実際に、2か月ほど試用期間を延長されましたし、会社としては自分から合わなかったという理由で辞めさせたかったのかもしれません。退職届を用意された驚きとともに、あまりに冷たい対応に驚きを感じました。がんが見つかった自分が悪いのではないかという気持ちがあり、少し引け目を感じていました。最終的には、サインせざるを得ない状況に追い込まれました。
岸田解雇を告げられて、その場でサインしたということですね。
白石雰囲気的にサインしないといけない空気がありました。私の右隣には総務、左には社長、向かいには会長が座っていて、四方を囲まれているような感じでした。27歳で、試用期間という弱い立場だったので、自分には逆らう力もなく、何も言えないような状況でした。
大西聞いているだけで心が痛くなります。
白石解雇になったのは、がん告知を受けたことが大きかったのはもちろんですが、持病の悪化も影響していたかもしれません。いろいろな要素が重なっていました。2012年は、クリスマスにがんを告知され、年末最後の出勤日に解雇されました。「最後にこれか」とダメ押しされた感じで、心理的には非常にきついものでした。
岸田そうですよね。そこから仕事がなくなるってことですものね。
白石がんを告知されて、早々に手術の日程を決めて、入院手続きする時には職業欄に「正社員」「会社員」と書いたのに、年が明けて、再度手続きする時には「無職」になっているんです。「無職」と書いた時は、なんか本当に切なかったです。「無職なの?俺」という複雑な心境でした。
岸田会社は固定観念で「がんになった人は働けない」と思ったのかもしれないですね。そんなことはないのに…。
清水当時はまだ社会の仕組みがよく分からない年齢で、潰瘍性大腸炎を抱えていた上に、がんが発覚した人に対する会社の今回の対応は、温かさがまったくなく、強い憤りを感じます。白石さんがご自分のケースを「特殊な事例」とおっしゃいましたが、例えば、ワンマン経営や規定が不十分な会社では、こうしたことが繰り返されている可能性があり、それは大きな問題だと思います。本来なら休職の手続きを取れば傷病手当を受けられたはずですが、そうした情報提供も一切なく、自己都合退職にサインさせられてしまった。本当に理不尽で、過酷な状況だったと思います。
白石そうなんですよね。当時は知識もなく、自己都合退職になるとどうなるのかも理解していませんでした。その結果、勤続期間が4か月だったため、傷病手当を申請する資格がなく、支援を受けられませんでした。本来、6か月以上勤務していれば申請できたのですが、会社都合ではなく自己都合退職とされたため、認定されませんでした。
大島このパターンで自己都合はやりきれません。
手術後の白石さん
白石がんの手術や治療には多額の費用がかかります。精神的に落ち込んでいる中で、治療のことよりも「お金をどうしよう」と考える方が優先になってしまい、生きた心地がしませんでした。経済的不安と健康問題が重なり、本当につらい状況でした。
岸田白石さんのご経験談、このような場で公にお話いただくことについて言いづらさとかあると思うのですが、それでもこうやって語っていただける理由はなにかあるのでしょうか。
白石このようなケースは氷山の一角で、実際に声を上げる人は少ないのではないかと思います。多くの人は、理不尽な状況にあっても黙って受け入れてしまうのだと思います。私自身は、岸田さんと一緒に話をする機会があったこともあり、こうして自分の経験を発信することの大切さを感じています。現在では状況が変わっている部分もあるかもしれませんが、当時のリアルな経験を伝えることで、社会の問題をより多くの人に知ってもらいたいと思っています。こうした話をしなければ、多くの人にとっては他人事のままで、自分の問題として考えられないままになってしまうと感じます。だからこそ、情報を発信し続けることが必要だと考えています。
大西本当に貴重な発信だと思います。
清水「びっくり退職」という言葉があります。私たち医療者の間でも「がんになったからといって、混乱してすぐに退職しないでくださいね」といった啓発が行われた時期がありました。ただし、多くの場合、そのメッセージは「がんになった本人が申し訳ないと思って自主的に退職届を出すことを防ぐ」ことに焦点が当てられていました。実際に「会社から退職届を渡される」というケースが存在するならば、「退職届を受け取ってもサインはしない」という選択肢があることも、もっと広く知られるべきだと感じました。
岸田白石さんは、そのあと無職になってからどのように過ごしましたか。
白石入院中は無職の状態で、治療を受けながら過ごしていました。手術から3〜4か月が経って、ヘルパーの資格を取得してアルバイトを始め、少しずつ社会復帰を進めました。手術後は、とりあえず何かしたいとこみ上げてくるものがあって、ハーフマラソンにも出場しました。
社会福祉士から
樋口残念ながら、今でも病気を理由に、退職や雇用形態の変更などを促されることがあるようです。 そのとき、驚きや不安で頭が真っ白になってしまったり、周りの空気に押されて、その場でサインしてしまうこともあるかもしれません。でも、それはあなたのせいではありません。突然のことにどうしていいかわからなくなるのは自然なことです。また、病気の治療のために、これまでの働き方を変えなければならなくなってしまうのもあなたのせいではないのです。 そんなときに大切なのは、すぐに決めなくていいということ。「一度持ち帰って考えます」「家族と相談します」と伝えて、時間を取りましょう。その場では何も言えなかったとしても、あとからでも相談はできます。 退職や雇用の変更について悩んだら、がん相談支援センターなど、無料で話を聞いてくれる場所があります。病気になっても働き続ける道や、休職や手当といった支援制度が使える場合もあります。制度については、加入している健康保険や就労先によって異なってきますので、ひとりで頑張って情報収集をしようとせず、詳しい専門家に聞いてしまうのが一番です。 あなたの働く権利や生活を守る方法は、必ずあります。
- 監修:がん研有明病院 腫瘍精神科 部長 清水 研 先生
2025年8月更新
