AYA座談会
休職か、退職か―会社の対応とその先の働き方
(座談会開催日:2025年3月7日)

桑原 慎太郎さん
桑原私の場合は、体調不良で救急車で運ばれ、MRIを撮影して、頭に腫瘍があると診断されてがんがわかりました。緊急性が高くそのまま入院し、病院のベッドに座りながら上司に状況を電話で報告しました。会社のサポート体制が比較的整っていて、休職の手続きを進めました。最終的に約5か月間の入院となりましたが、その間はすべて休職扱いとして対応してもらえました。
岸田急でしたが、仕事の引き継ぎは大丈夫でしたか。
桑原入院の1年ほど前から体調が悪く、配慮が必要な人が配属される部署で働いていました。自分のペースでできる仕事で、個人で担当する仕事も少なかったため、引き継ぎの必要はほとんどありませんでした。長期入院については、私自身も驚きましたが、上司も驚きつつ受け入れてくれました。
岸田入院する1年ほど前から、だんだん体調が悪くなっていったのでしょうか。
桑原体調が悪くなり始めたのは入院の1年半前からでした。もともとは三交代勤務で夜勤もやってバリバリ働いていましたが、途中からつらくなり、入院の1年前には昼勤務に固定してもらっていました。就業環境には配慮をしてもらっていましたが、それでも当時は体調不良により苦しみながら仕事をしていたというのが正直なところです。
清水桑原さんの場合、会社のサポート体制が整っていたという点では、一定の安心感がありましたね。
岸田上郡さんの場合は罹患1回目と2回目で、それぞれの会社がどのような対応をされたのか教えてください。
上郡1回目は、体調が悪くて近所のクリニックを受診したところ、医師から「がんかもしれない」と言われ、そのまま病院に紹介されて緊急入院することになりました。入院前、上司に「体調が悪いので週明けに病院に行ってきます」と伝えていましたが、入院後は、直接話す機会がないまま、社内のチャットツールで上司に入院することを知らせ、その後人事担当者と連絡を取ることになりました。悪性リンパ腫の診断は人事には伝えましたが、上司や同僚には伝えませんでした。人事の人も内密にしておいてくれたようです。
岸田いきなりの入院で、別の病気を疑われたり、思わぬ噂が立ったりしませんでしたか。
上郡噂が立っていたのかわからないぐらい、本当に誰とも連絡を取っていませんでした。
岸田ベンチャー企業だと、急に休まなければならない状況は大変だったと思いますが。

上郡 亜祐美さん
上郡入社してから間もなかったので、私が引き継いだ仕事は、私がいない間に元の人に戻されるという作業が行われたようです。
岸田なるほど、そういうことですね。それでもいきなり休むことになって、心残りなどはありませんでしたか。
上郡その時は「がん」という言葉が非常にショッキングでした。先生からは腫瘍が大きいから治療を急いで始めなければならないと説明され、妊よう性温存などについても考える暇もないほどでした。正直、仕事のことは全く考えられませんでした。
岸田それぐらい緊急だったってことですよね。治療期間はどれぐらいでしたか。
上郡3か月。そのまま入院して治療してました。
岸田2回目の罹患に関しては、どんな状況でしたか。
上郡2回目は、1回目の退院から経過観察を続けて約5年が経った頃で、別の会社に転職して10か月後のことでした。主治医から「腫瘍があるかもしれない」と言われました。入社時にがんの罹患歴があることは伝えていたため、上司に再発の可能性を伝えました。治療が始まる前に念のため重要な仕事だけ引き継いで、治療が始まった当初は仕事をセーブしながら、休職はせずに抗がん剤治療を受けるつもりでしたが、副作用が強く、1か月後には休職することにしました。引き継ぎをスムーズに済ませて、計画的に休職できました。
大島最初に罹患歴を伝えられていたの、すごいですね。
岸田確かに、入社の時にがんのことを伝えるかどうかは、意見が分かれますね。2回目は、はじめは働きながら抗がん剤治療をしていて、それが難しいと判断して1か月後に休職したと。その時は上司だけではなく、他の同僚にも知らせましたか。
上郡この時は上司にしか知らせませんでした。
清水1回目の罹患は本当に突然のことで、仕事に対する気持ちを持つ余裕がなかったけれど、2回目はご自分が人事で休職に関する知識もあり、計画的に休職を決められたのですね。報告したのが上司だけだったということですが、病気のことを会社の誰に伝えるかというのは、悩ましいことだとよく聞きます。

入院時のお守り(上郡さん)
上郡人事部門の中は噂好きな人が多かったため、間違った情報が出回らないように、上司にお願いして、療養していることとメンタルヘルスの不調ではない旨を部門の会議で伝えてもらいました。ただ、健康保険組合とのやり取りが必要で、上司が信用できる方にだけ伝えることに決めました。結果として、上司とその方の2人にのみ情報を伝えました。
清水なるほど。そういう噂好きな人が多い環境だと、気を遣われるのかもしれませんね。
岸田ところで、2回目の治療期間はどれぐらいでしたか。
上郡その時は半年でした。診断がついた時点で、移植があるとわかっていたので入院が長引くという話は聞いていました。当時働いていた会社では休職は5か月までという規定があり、6か月休職した場合は退職になってしまうため、最初はできるだけ通院しながら抗がん剤治療を受けつつ働き続けたいと思っていました。
岸田5か月で自然退職。僕が聞いた中では短い方ですね。
清水私も短いなと思いますね。傷病の期間、会社が補償はしないけど傷病の期間は休職とするというのが多くの企業のあり方なのかなと思ったんですけど。上郡さんとしてはそういうものなのかなというふうに思ってらっしゃったんですかね。

入院中に情報収集(上郡さん)
上郡私も、納得がいかない点があったので、入院していた病院のがん相談支援センターに相談したところ、「就業規則がそうなっているならおそらく問題ない」とのことでした。多様な就業形態の人がいて入れ替わりが頻繁な業界なので、定着して長く働いてもらうための制度が整っていないのだと思います。退院時には復職を勧められましたが、一度解雇されてしまったことで、戻る気持ちにはなれず、転職することを決めました。
社会福祉士から
樋口がんの治療には時間がかかることがあります。その間、会社の就業規則で「休職は〇か月まで」と決められていると、それを過ぎたら自然に退職になると言われることがあります。とくに中小企業や契約社員の多い職場では、短めに設定されていることもあります。今後の働き方について迷ったときには、がん相談支援センターなどの相談窓口に話をしてみてください。傷病手当に影響が出る可能性はありますが、退職を避ける方法など、 別の道が見えてくることもあります。 健康保険に加入していれば、傷病手当金が支給される可能があります。これは会社ではなく健康保険組合が支給するものです。支給期間は法律で原則として最長1年6か月と決まってきます。条件を満たしていれば、退職後も受け取れることがあります。 もし制度のことでわからないことがあれば、ひとりで悩まず、外の支援機関に相談してください。あなたの生活やこれからの働き方を支える方法は、必ずあります。自分を責めず、どうか安心して声をあげてください。
大西私の場合、罹患時は居酒屋でアルバイトをしていました。コロナ休業の最中に店長から届け物を頼まれたのですが、体調が悪くてできなくなってしまいました。入院となり、病院から店長に「白血病になったみたいで、よくわからないのですが、多分戻れません」と泣きながら伝えました。エリアマネージャーからも連絡をいただき、「元気になったら戻ってきて」と言ってもらいましたが、「コロナ禍で飲食店は感染リスクがあるから」という理由でドクターストップがかかり、戻れませんでした。
岸田大西さんとしては、飲食店の仕事に戻れなかったことに関して、どう感じられましたか。

接客グランプリの賞状とメダル(大西さん)
大西罹患直前に社内の接客で準グランプリを獲って「次は、グランプリ」と意気込んでいたタイミングでした。それが叶わないことが悔しくて、今でも「もう少し働いていれば取れたのに」と思っています。諦めるしかないんですけどね。接客業がすごく好きだったので、もう戻れないことが、本当に悲しくて。今になってみれば、他の世界を見る楽しさも知ることができましたが、当時はとにかく悲しかったのを覚えています。
岸田その後の再発の時はどうでしたか。
大西再発は22歳の時で、1年ほど前から屋内型テーマパークで働いていました。勤務先の上司には病気のことは伝えていましたが、元気ではあったので普通に過ごしていました。そんな中で、自覚症状はないまま、主治医から検査値の上昇があり「再発」と告げられました。職場には、入院が決まった時に伝えましたが、出勤時だったのか、電話だったのかはあまり覚えていません。あっさりとしたやり取りだったのを覚えています。このテーマパークに思い入れがないわけではありませんが、シフトにあまり入れていなかったので、自然な流れで退職しました。
岸田今は、別のお仕事をされていますが、それはどういう経緯で始めたんですか。
大西新しいテーマパークのオープニングスタッフの募集を知って、入院中に採用面接を受けました。
岸田入院中に、ですか。
大西はい。点滴ぶら下げながら、髪の毛もない状態でオンライン面接を受けました。ウィッグなしでケモキャップをかぶったまま、「屋内型テーマパークで1年働いていました!」「働きたいです!」と訴えました。
岸田ということは、会社も入院中だとわかりますよね。
大西そうですね。面接時に病歴などは質問できないという理由もあったと思いますが、病名は聞かれませんでした。無事に採用が決まってからは、主治医に「オープニング研修に間に合うように退院させてください」と直談判。主治医も最後は根負けして「うん、頑張る。みんなで頑張ろう」と言ってくれて、病院のスタッフみんなで私の退院に向けて尽力してくれました。そうして、無事に新たなスタートを切ることができました。
上郡会社側はリスクに敏感なので、闘病しながらの選考通過はすごいです。
岸田本当にそうですよね。大西さんの熱意が伝わって無事にオープニングスタッフになったんですね。会社や同僚の方は病気のことは知っていましたか。

治療入院中の大西さん
大西事前に職場の人たちには白血病であることを伝え、症状が悪化する可能性があることも説明していました。「ウィッグがずれていたら教えてね」「何かあったらカバンの中のヘルプマークを見て、助けて欲しい」などと伝えていました。SNSの自分の白血病のアカウントで症状を伝えているのですが、それをプロフィールの目立つところに載せて、「今の状態は、ここから見てね」っていうスタイルにしました。そうすることで、「今、これがきつい」と気づいてもらえるようになりました。周囲に詮索される前に、自分から全部発信するスタイルです。
大島面白くお話しされてますけど、周囲にご自身の注意事項を知らせることは、とても大事なことですね。
大西そうですね。体調が悪い時は、それを理解し、配慮してくれるようになりました。
岸田そうやって周囲に状況を共有して、お仕事は順調でしたか。
大西しばらくは順調でしたが、突然、足が異常にむくんでパンパンになってしまって歩けなくなってしまったんです。立ち上がることもできず、座った状態から動けなくなりました。そのため、職場の公式LINEグループに出勤できないことを報告し、翌日からしばらくお休みしました。
岸田そのあと無事に復帰はできたんですか。
大西それが、結果的に休職することになりました。休職は最長2〜3か月という規定でしたが、会社側もオープニング時期で想定外だったようで、「前例はないけど万全になるまで休んで」と配慮してくれました。結果的に5か月ほど休職し、その間も上司と何度も電話で相談していました。全体のグループLINEでもやり取りをしていました。
岸田今はどういう状況ですか。
大西実は、今月いっぱいで退職することになってしまって。テーマパークのリニューアルで私の担当アトラクションがすべてなくなりました。配属されていたスタッフは別々の部署へ移動になったり、人員削減のために3月末で退職するよう通知されたりしました。退職となるのは、私を含めた数名で、オープン当初から働いていたベテランで異動ではなく退職を言い渡された人は恐らく私だけでした。長期の休職が影響したのかもしれません。悲しさもありますが、次に進もうという気持ちです。これまで長く休職させていただいたことには感謝しています。

大西 波さん
清水大西さんは接客の準グランプリを獲ったり、移植病棟から採用面接を受けたり、仕事に対する熱意がすごいなと思いながら聞いていました。
大西私は、自分が楽しんで、人も楽しんでもらう、というモットーで働いてるので、絶対この調子でニコニコしております。
清水大西さんのそばにいると、きっとみんな明るくなるんでしょうね。
社会福祉士から
樋口長期の治療を経て、すぐに働くというのは、想像以上に大変なことです。 それでも、仕事と向き合おうと努力を重ねてきた大西さんの姿勢は、きっと誰にも見えないところで積み重ねられてきたのだと思います。体調に不安を抱えながらも職場に戻ろうとしたその気持ちは、きっと周囲にも伝わっていたはずです。 今回、退職という形になったとしても、それは決して能力や姿勢に対する評価ではなく、会社の制度や働き方が今の状況に合っていなかっただけのことだと言えるのではないでしょうか。 休職が長引いたことで「不利になったのでは」と感じてしまうことがあるかもしれませんが、そう思うのは自然なことです。それだけ、仕事に対する責任感や誠実な気持ちがあった証でもあります。 そして今、「感謝している」「次に進みたい」と言葉にできる大西さんの、言葉では言い尽くせないほどの強さとしなやかさを備えたその力は、大西さんの魅力であり、これからの社会が本当に必要としている力だと、私は信じています。
- 監修:がん研有明病院 腫瘍精神科 部長 清水 研 先生
2025年8月更新